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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

 ヨハネ8:31~36

 

​【タイトル】

「主に在って、私はキリストの弟子です。」

 

【本論】​

 初めの質問―「あなたはキリストの弟子ですか?」と訊かれたら…?―「弟子」という言葉のイメージは、何かの専門的な領域で、先生や師匠、親方と呼ばれるような人の下で、一人前になるために訓練され、その間は自分の好きなことは何も出来ない不自由な者、厳しさに耐える者というイメージがあると思うが、聖書では「弟子」とはどういう者であると言っているだろうか?

 

​ 「弟子」と言う言葉は新約聖書では318回、このヨハネの福音書では79回出て来る。その中で、イエス様の言葉として出て来るのは3箇所。この箇所と、ヨハネ13:35、ヨハネ15:8です。

ヨハネ8:31:「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」

ヨハネ13:35:「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

 

ヨハネ15:8:「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」

 これらの箇所を読んで分かるように、そこでは、イエス様ご自身の言葉で、弟子としての共通の姿、こうであれば弟子だという姿が明確に語られている。―それは、みことばに留まり、みことばを実行して、みことばによって生きようとする者の姿です。「多くの実を結び」(ヨハネ15:8)は、「留まっているなら、多くの実を結びます。」(15:5)とあるように、留まっていることの結果であり、「互いの間に愛があるなら」(ヨハネ13:35)も、その前の「あなたがたは互いに愛し合いなさい。」(V34)というみことばを実行した結果のことです。私たちはつい目に見える結果に目が行ってしまうので、「まだ私は多くの実を結んでいないから、キリストの弟子ではない。」とか、「まだ互いの間に愛がないから、キリストの弟子ではない。」と判断してしまいがちです。しかし、聖書は結果ではなく、今、私たちがイエス様との関係でどうであるのかという、イエス様との今の関係を重要視するのです。それが、「わたしのことばにとどまるなら」ということです。

 「とどまる」という言葉は、「メノー」(ギ)という言葉が使われている。そしてこの言葉は、聖書の中ではこのヨハネの福音書で一番多く使われており、今年の聖句の「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、…。」(ヨハネ15:5)の「とどまり」も、この「メノー」という言葉が使われていて、ぶどうの木とぶどうの枝との関係で分かるように、イエス様との、今もつながって生きている継続的な関係を特徴的に表わす言葉です。だから、「とどまる」ということは、単に「信じた」ということではない。

 イエス様は、「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。』」(ヨハネ8:31)とあるように、前節の「イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。」(V30)という、イエス様の何を信じたかは分からないが、その信じたユダヤ人たちに言われたのです。イエス様は、この時の彼らの信仰が、イエス様に留まっている生きた本物の信仰でないことが分かっていたので、このように言ったのである。事実この後、彼らの信仰がそのような信仰でないことが露呈する。イエス様が、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(V31b~V32)と言われると、「彼らはイエスに答えた。『私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。』」(V30)のような頓珍漢な質問しか出来なかったのです。イエス様がおっしゃたように、もし彼らの信仰がイエス様のことばにとどまる信仰であったら、彼らは真理を知って、霊的盲目から自由になったのです。

 「真理を知る」の「知る」は、「とどまる」と同じように実際的なこと、体験的なことです。単に頭で知っているということではない。信仰というのは、「行ないのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)とあるように、実際的なこと、体験的なことなのです。だから、私たちはイエス様が言われるように、イエス様のことばに留まって実行して行くならば、私たちはそれによってイエス様の弟子になり、真理を知って自由になることが出来るのです。私たちはそうなりたいでしょうか?―ならばそのようにして、イエス様との関係において、みことばに留まり、実行して行こう。そしてイエス様の弟子となって行こう。

【結論】

 私たちがキリストの弟子、イエス様の弟子になることは、主のみこころです。

マタイ28:18~20:「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」という弟子造り命令があるように。

 イエス様は、弟子になるための姿をこのようにも言っている。

マタイ16:24:「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

 また、マタイ11:28~30のみことばにも、こうある。このみことばは、多くの人々をイエス様を信じる信仰に導き、救いに導くみことばでもあるが、またイエス様の弟子の姿を明確に語っているみことばでもある。

マタイ11:28~30:「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 イエス様の「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言われたみことばによってイエス様のところに行っても、もし、「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」を実行しなければ、そのみことばに留まらなければ、たましいに安らぎは来ない。イエス様のくびきを負い、イエス様の弟子にならなければ、真理を知ることも無く、平安を得ることも、自由になることも出来ないのです。

※イエス様は、「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と言われた。これが重要です。これが弟子の姿だからです。あのイエス様を信じたけれども、真理を知り、自由になることが出来なかった、あのユダヤ人のようではなく、私たちはイエス様のみことばに留まろう。

 最後にもう一度訊きます。―「あなたはイエス様の弟子になりたいですか?」、「キリストの弟子になりたいですか?」、「平安を得たいですか?自由になりたいですか?」

​​

―祈り―

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