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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

2019年6月2日 主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

ルカ24:49

 

​【タイトル】

「とどまっていなさい。」

【本論】

 2014年4月16日に起きたセウォル号事件から。もし「留まっていなさい。」というアナウンスを無視して避難を開始していたら、あれほどの沢山の高校生の命は失われることはなかっただろう。あの「留まっていなさい。」という言葉に従うか従わないかが、彼らにとっての生死を分かつ分岐点となった。一方、今から約2,000年前、同じ「とどまっていなさい。」という言葉に従うことにより、人類の歴史に大きな転換点がもたらされた。ペンテコステの日に起きた出来事のことである。「わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまで、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49)の「とどまっていなさい。」という命令に弟子たちが従うことにより、弟子たちは全世界に出て行き、彼らのために十字架にかかり、死んで墓に葬られ、3日目によみがえられたイエス・キリストの証人となって行ったのである。そしてその証しが西回りに地球を巡り、日本にまで届いたのです。

 この「とどまる」ということは、実際にはどういうことだったのだろう?!

使徒1:12~14:「そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」

 彼らは「みな心を合わせ、祈りに専念していた。」(V14)のです。そのようなかたちでとどまっていたのです。

抄訳V14:「…〔待機しながら〕全く心を一つにして、ひたすら祈りに励んでいた。」

 何を待機=待ち望みながら祈っていたのだろうか?―イエス様が「父の約束」といわれた「聖霊のバプテスマ」(使徒1:4~5)のことでしょう。また、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)で言われている、「聖霊が臨むときに受ける力」のことでもあるだろう。しかし実際には、彼らはその聞いていた「聖霊のバプテスマ」のことも、また聖霊の力のことも、それが実際にどういうものか分からずにいた。何故なら、彼らが「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1:5)のことを聞いても、とんちんかんな応答でイエス様に答えていたからである。彼らが聖霊のバプテスマとはどういうものか、聖霊が臨むときに受ける力とはどういうものか、それは彼らがこの後実際にペンテコステの日の出来事の中で受け、聖霊によって彼らの目が開かれ、実際に霊的に体験して初めて分かったのである。ヘブル的には、「知る」は「体験的に知ること」なのです。

 この時、彼らにとって最も現実的で、切実な思いで、心を合わせ、専念して祈っていたのは、「…。『ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。』」(V11)と御使いの言葉を通して語られていたように、彼らと3年半もの間、ずっと一緒に過ごし、また十字架で死んで墓に葬られて3日目によみがえられて出会ったイエス様に対する思いである。彼らはイエス様との現実的な交わりがあった中で、そのイエス様を求める現実的な飢え乾きをもって彼らは祈っていたのです。

 新座のエワルト師の出身地のドイツ・シャーハイムのカトリック教会の天井には、どこのカトリック教会の天井と同じように、昇天のイエス様が中央に描かれている。ドイツでも貧しい時代の頃、人々は教会に来て、すべてを成し遂げて昇天されたイエス様の姿を見て、どんな辛い労働でも生活でも、希望を持って生きることが出来たのである。イエス様の弟子たちも、イエス様の言葉を信じ、イエス様に対する飢え渇きをもって、待ち望んで祈っていたのである。

※私たちはどのような思いで礼拝に臨んでいるだろうか?―弟子のような、シャーハイムの人達のような飢え乾きを持って礼拝に臨んでいるだろうか?―このことが重要なのです。神を求める信仰と飢え渇き、みことばの約束を信じる信仰と、その成就に対して飢え渇いて求めること、待ち望む心が重要である。それが、「とどまる」ということです。何もしないでいるのではなく、神様の約束は必ず実現するという、その神様の約束への飢え渇き、その神様を求める飢え渇く信仰、待ち望む信仰をもって祈ること。それが「とどまる」ことである。

【結論】

 私たちは来週、ペンテコステの恵みを覚えて礼拝をする。私たちは来週も、今日以上の、今まで以上の、みことばの成就、イエス様のみことばの実現を、飢え乾きを持 って、待ち望む信仰をもって祈ろう。求めよう。

 私は今週急遽、アルゼンチンで来週の11日~13日に行なわれる聖会に参加するために出掛ける。それは、私にそのような飢え渇きがあるからです。並外れた熱心さ、情熱、大胆さをいただくために。神が、教会に、この地域に、日本にリバイバルをもたらしてくださるために。それを求めて出掛ける。神様の恵みはお金では買うことは出来ないものである。(使徒8:20)しかし、ただ心から飢え渇いて求める者には、神様は答えてくださる。

ルカ11:13:「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

 但し、求める時には疑ってはならないのです。必ず与えられると信じて求める、祈るのです。

ヤコブ1:5~8:「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」

引用:シャーハイムのリバイバル。100年前、4,000人の村で起きた3人の老姉妹の3年半にわたる祈りによるリバイバル。町の3分の1が悔い改めて救われた。

※諦めない、飢え乾いた祈りが必要です。悔い改めて、飢え渇いて祈る祈りが必要です。

※日本のリバイバルのために。この地の救いのために。家族の救いのために、私たちはもっと飢え渇いて求めよう。祈ろう!

―祈り―

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