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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

 

 【聖書箇所】

エレミヤ17:7~8

【タイトル】

「リバイバルの中に留まる恵み」

【本論】

エレミヤ17:7~8:「【主】に信頼し、【主】を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。」

 この箇所にリバイバル(死から生き返った)私たちクリスチャンの受けた恵みが記されている。

V8:「その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。」

 ただし、「水のほとりに植わった木のように流れのほとりに根を伸ばし」とあるように、恵みを受ける場所にいなければ、V6:「荒地のむろの木(ねずの木)」のようになってしまうのである。

※霊的原則も自然原則も同じである。私たちは恵みを受け、受け続けるためには、その「恵みあるの場所」に留まっていなければならないのです。

では、私たちにとって「恵みのある場所」、「水のほとり」、「流れのほとり」とはどこだろう?

(1)みことばがあるところ。主の臨在があるところである

詩篇1:2~3a:「まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」

 生まれた赤ちゃんにミルクが必要なように、また、成長するに従って相応しい食物が必要なように、クリスチャンが成長し実を結ぶために必要なのはみことばです。

Ⅰペテロ2:2:「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

 みことばは、私たちがまだ乳飲み子の時だけ必要なわけではない。救いの完成のため、大人になり、成長を遂げて築き上げられて行くためにも、みことばは必要なのである。「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」(Ⅰペテロ2:4~5a)とある通りである。

 また、イエス様御自身もこう言われた。

ヨハネ6:63:「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」

 また、こうも言われた。

ヨハネ6:35:「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』」

※私たちの霊的成長のためには、また、成長して豊かに実を結ぶためには、人に食物が必要なように、みことばとの交わり、イエス様との交わりが不可欠なのです。

※私たちは、みことばとの交わりのために一日どの位時間を割いているだろうか?―肉体のために日に3度食事の時を持つように、霊的体のためにも一日に1回はみことばのテーブルに着こう。

引用:中国のブラザーユンのこと:独房生活における勝利は、みことばを心に蓄えていたから。

(2)聖霊様の臨在されるところ、主の宮、天の都である

 聖書では、「水」は「聖霊様」を指し示す。

ヨハネ7:37~39a:「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」

 「その人の心の奥底」とは神殿、主の宮のことを言う。これは、ペンテコステの日の出来事―聖霊が降り、クリスチャンの内に聖霊が宿るようになったこと―により、クリスチャンが主の宮となり、「祭り」(仮庵の祭り)を指し示す「千年期」以降の完成されたクリスチャンの姿を言う。

 エゼキエルは、その姿を幻によって見て、こう言っている。

エゼキエル47:1:「彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。」

エゼキエル47:7~9:「私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。彼は私に言った。『この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。』」

エゼキエル47:12:「川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」

 これはまた、黙示録で描かれている天の都の姿でもある。

黙示22:1~2:「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」

※このように、イエス様が言われた聖霊の宮も、エゼキエルの見た幻の神殿も、黙示録で描かれている天の都も、私たちの主の宮としての姿である。私たちはイエス様を信じた瞬間、聖霊が宿り、聖霊の臨在するところとなり、いつも潤い、周囲に多くの恩恵、祝福を流す主の宮となった。だから私たちは、私たちの中から生ける水がいつも流れ出て、周りの人々を潤し、豊かに実を結ばせ祝福を受ける者としなければならない。そのためには、私たちは自ら渇かないため、恵みの場所から絶対に離れてはならないのである。

◎そうしなければどうなるか、Ⅰサムエル3章に登場する二人の人物を見てみよう。

・「エリは自分の所で寝ていた。」(Ⅰサムエル3:1~2)

・「サムエルは、…主の宮で寝ていた。」(V3)

 その結果、最終的には「エリの目はこわばり、…」(Ⅰサムエル4:15)、滅んだのである。一方サムエルは、「…。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。…」(Ⅰサムエル3:19~21)とあるように、神とともに歩み、祝福の人生を歩んだのです。その違いを生み出したのは、恵みのある場所である主とともにいるかどうかの違いなのです。エリはサムエルとは違い、「主を主とする」を意味する「主の宮」から離れ、「自分を主とする」を意味する「自分の所」にいたため、水気を失うように聖霊の恵みを失い、霊的に目がこわばって、最後には霊的に完全に盲目になって滅んでしまったのです。

【結論】

 私たちは何があろうとも神との交わりを第一にしなければならないのであって、神以外のものを神としてはならないのです。仮令それが教会の奉仕であっても、それは私たちの神にはならない。私たちは神との交わりを第一にしなければならないのです。もしそうなったら、私たちは主が悔い改めをラオデキヤの教会に求めたように、主に立ち返ろう。

―祈り―

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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