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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

 ガラテヤ2:16

 

【タイトル】

​「人生最高の決断」

 

​【序論】

​ 世紀の伝道者と言われたビリー・グラハム師の伝道メッセージでは、いつも2つの独特な言い回しがあった。1つは「聖書はこう言っています。」。もう一つは、「今がイエス・キリストを信じる決断の時です。」というものです。そして、この「今が決断の時です。」という言葉により、何人の人が救いに導かれたかは分からないが、数え切れないほどの人が救われた。

 人には誰でも人生の中でさまざまな決断の時がある。十代であれば、どこの学校に入ってどういう勉強をしようかとか、その後はどういう会社に入って何の仕事をしようかとか、人生の節目節目でいろいろな決断をする。しかし、人はそのように人生の節目節目でさまざまな決断をするが、それらの中でもイエス・キリストを信じる信仰の決断は、人生の中で最高の決断である。何故そうなのか、今日はそのことについて一緒に聖書から確認して行こう。

【本論】

(1)それは、イエス・キリストを信じた結果与えられる「罪の赦し、救い」というものが、この世のどんなものと比べても、最高に価値あるものだからです。

 イエス様はこう言っている。

マタイ16:26:「人は、たとい全世界を手に入れても、まこといのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」

 全世界と言うのは、全世界の富、知恵、力、或いは世界的な名声、地位、例えばノーベル章とか、スポーツで言うなら世界記録保持者の名前のリストに名前を連ねるとか、金メダルに輝くとかいうことだが、そのように全世界のすべての富、力、知恵、賞賛、栄誉を得ても、まことのいのち=救いを失ったら何の得があるだろうかというのです。それを再び買い戻すには、人は一体何を差し出せばいいのかと言っているのである。それだけ、救いを得るということは重要であり、他の何にも代え難い、大切なもの、価値あるものなのです。

 また、イエス様は救いというものを天の御国という言葉で表わして、こうも言っている。

マタイ13:44~46:「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」

 何の説明も要らないほどです。。それほど救いというものは最高に価値あるものです。

※このように、救いという「最高に価値あるもの」を得るための決断だから、救いを得るためにイエス・キリストを信じる信仰の決断をするということは、人生最高の決断なのである。

 次に、そのような最高の決断をするに至った「信仰」ということについて少し考えてみよう。 パウロはその決断をするに当たり、今日の聖書箇所でこう言っている。

ガラテヤ2:16:「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。」と。

 これは、イエスキリストを信じる信仰以外に私たちの救いはないということを知ったから、だから信仰の決断をしたのだということです。私たちは何かを決断する時、決断しても大丈夫という、はっきりとした根拠と確信がなければ決断できないものです。私の結婚の決断の時は、「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。栄光の王とは、だれか。強く、力ある【主】。戦いに力ある【主】。門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。その栄光の王とはだれか。万軍の【主】。これぞ、栄光の王。セラ」(詩篇24:7~10)のみことばから、これは神の計らいによることなのだから結婚してもいいのだと、確信が与えられて決断をした。パウロの場合もそうだった。パウロは初め、「人は律法の行ないによって義と認められる。罪の赦しを得ることができる。」と信じていたが、ダマスコ途上における聖霊体験によって目が開かれ、信仰の大転換が起きて、イエスキリストを信じる信仰によらなければ救いはないと知り、それを知ったからこそ、「私たちもキリスト・イエスを信じたのです。」と言っているのです。

 この信仰の決断をもたらした「信仰」とは何だろう?私の結婚の決断の時の信仰、パウロがキリストを信じた時の信仰とは何だろう?―パウロはその信仰を、恵みの信仰と言っている。

エペソ2:4~9:「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、─あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。─キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

 パウロは、私たちの信仰も、またその信仰による決断もまたその結果である救いも、神からの賜物、神の恵みであると言うのである。そういう点で、次になぜ信仰の決断が人生で最高の決断なのであろうか、それは;

(2)それらはすべて、神の恵みだからです。

 恵みと言うのは、「受けるに値しない者に与えられる神からの無償の贈り物、無条件の贈り物」のこと。そのような尊い恵みを恵みとして受け取っているので、信仰の決断は人生最高の決断と言えるのです。ところが皮肉なことに、恵みが無償、無条件の贈り物であるがゆえに、恵みは私たちにとって大して価値があるものには思えないものになってしまうのです。人は自ら労して汗して得たものは大切にするが、何の苦労もなく、汗することもなく受けたものはすぐに忘れてしまいやすい。結局、有難味が分からないからです。

 私たちの場合はどうだろう?―私たちは、私たちがたとえ汗して得なくても、労して受けなくても、私たちが信仰の決断によって得た「救い」というものを、最高に価値あるものとして大切にしているだろうか?―是非そうして行きたいものである。決して、どうせ安く買ったのだから、もう飽きたからリサイクルショップに売りに出してしまおうというような風に、この世のモノと同じようなもののようにして、私たちに与えられた「救い」を価値無いものにしてはいけないのである。救いは最高に価値あるもの!何故なら、私たちにとって最高の、尊い救い主であるイエス様の尊い代価が支払われているからです。

【結論】

 パウロはこう言った。

ガラテヤ2:21:「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」

 イエス様は私たちのために尊い代価を払ってくれた。だからこの尊い代価の価値を覚えよう。そして今日、新たに信仰の決断をしよう。それは救いを受けるための決断ではなく、最高の価値ある救いを受けたがゆえに、神様に対して思いを新たにする決断です。「私は神の恵みを無にはしません。」と。これも、私たちがすることが出来る人生最高の決断です。

―祈り―

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