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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

ローマ12:1

 

​【タイトル】

「主にあって、私たちは神のもの」

 

【本論】

 先日、ある宣教師が語るメッセージを聞いた。その中で、北陸のある町に住んでいるクリスチャンから聞いた話をしていた。その話というのは、そのクリスチャンの散歩がてらのお寺の中で見た光景のことで、こういうものだった。―ある一人の男が本堂に向かい、賽銭箱にお金を投げ入れて、何か呟いていた。すると、その人は上着のポケットから財布を出し、財布から1万円札を取り出して、本堂に向かってお札を振りながら、大きな声で「俺の祈りに答えてくれたら、来年はこれをやるからな。」と、本堂の中に安置されている仏像にだろうか、本堂の中にいたかもしれないお寺の住職に向かってだろうか、大きな声で、そう叫んだのだそうです。

 

​ 私たちはこの話を聞いて、この人の姿に、一般的に日本人が持っている御利益信仰の典型的な姿を見るように思う。御利益信仰というのは、私たちの持っている神信仰とは全く正反対のものである。御利益信仰は、自分が主で、祈願の対象になっているものが僕になる関係です。そして、先ほどの男の人のように、「こうするから、こうして下さい。」と従わせるような関係です。しかし、私たちの神信仰と言うのは、神が主であって、私たちが神に従うという関係です。願い事でも祈りでも、その神に捧げるという関係です。これが私たちの信仰の本質です。神様は私たちにとって自動販売機のように、必要の時だけ「お願い事のコイン」を入れて、願いを叶えてもらうような、私たちにとって都合の良い存在ではない。むしろ反対です。

私たちの信仰は、イエス様がエルサレムに入場する時に、イエス様によって選ばれ、イエス様によって乗っていただいたロバの子のように、「さあお乗り下さい。さあ用いて下さい。」と、自分自身を神様の前に差し出す、捧げるようなものです。

 今日の聖書箇所のローマ12:1でもそのように語られている。パウロは1章~11章で、私たちは皆、神の恵み、憐れみ、神の不思議な御計画(11:33)によって救いを受けた者であることを語り、その結論として私たちに対し、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と言うのです。

 「霊的な礼拝」の「霊的な」というのは、(ギ)「ロギケーン」=「理に叶った、納得がいく、(結果として)当然の」という意味なので、「霊的な礼拝」とは、「理に叶った、納得できる、当然の礼拝です。」ということですが、何が「理に叶っているのか」というと、「私たちのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげること」が理に叶っていることなのです。

 では、どうして理に叶っているか?―それは、先ず神御自身が私たちが未だ罪人のとき、私たちを救うために、ひとり子なる御子イエスキリストを、私たちの贖いのために十字架に捧げて下さったからです。それも「生きた供え物」としてささげてくださったからです。

ヘブル9:11~12:「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

 イエス様は私たちを贖うために、生きた御自分のからだを捧げて、私たちの贖いを為し遂げてくださったのです。ここに、主にある私たちの信仰の本質がある。それは、御利益信仰者が持っているような、「受けること、与えられること」が中心ではなく、「ささげること、与えること」が中心になる信仰だということです。それも、「生きた供え物」としてささげることが理に叶っている礼拝であり、捧げること、与えることだというのです。

 ペテロは、それを次のように言っている。

Ⅰペテロ2:4~5:「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」

 ここで、聖書に登場するある二人のささげものについて見てみよう。創世記4章に描かれているカインとアベルのささげものです。アダムとエバは、神に対して罪を犯してからエデンの園を追放され、エデンの園の東に住み、そこでカインとアベルという二人の息子を得た。カインは農夫となり、アベルは羊飼いになったとある。そんな中である時;

創世記4:3~4a:「ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。」

 ところが、神はアベルのささげものには目を留められたが、カインのささげものには目を留められなかった。どうしてそうだったのだろう。ヘブル書の記者は、その理由についてこう伝えている。

ヘブル11:4:「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。・・・。」と。

 では、どうしてアベルのささげものが「良い捧げ物」だったのだろう?―それは、神との関係において「生きた捧げ物」だったからである。動物は神から管理するものとして与えられていた神のもの。植物はカインが自由に出来る自分のものだった。カインは、自由に出来る自分のものを、好きなようにささげたのである。一方のアベルはそうではなかった。

 二つ目の例を見たい。使徒5章のアナニヤとサッピラの例である。彼らは、もともと自分のものであったのだから、偽ることなく自由にして良かったのに、そうせず、彼らは教会を、神を欺いたのである。カインのときのように、生きた捧げ物ではなかったのである。

 私たちは神との関係において、このような生きた捧げ物、真実な捧げ物をしなければならない。神はそれを求めておられるのです。ところが、ここに私たちにとって一つの問題があるのである。それは、カインやアナニヤ、サッピラの例で見たように、肉の性質から来る、「失いたくない、無くしたくない」という「惜しむ心」です。

※しかし、私たちと神との関係のおいて、信仰の本質、礼拝の中心は、神が御子を惜しむことなく「生きた供え物」として捧げられたように、惜しむことなく私たちのすべてを捧げなければならないものなのです。それが「生きた捧げ物」です。

【結論】

 今日、私たちはもう一度、神との関係において、私たちの信仰を、また礼拝を点検してみよう。

・私たちは、神以上に何かを、誰かを、神にしていることはないだろうか?

・「こうすれば、こうします。」と、神と取引するような関係の信仰に、礼拝になっていることはないだろうか?

※私たちの主は、ただ一人、神だけです。そして、私たちは主のもの、神のものです。主だけを私たちの神として、ただ主だけを仰ぎ見て、信頼して、すべてをささげて、従って行こう。

※告白:「主よ。あなただけが私の神です。他にはありません。あなただけに信頼し、すべてを捧げて、従って行きます。」

―祈り―

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