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主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

​マタイ6:13b

 

【タイトル】

「国と力と栄えは、神のもの」

 

【序論】

​ マタイの福音書のこのみことばは「」付きになっている。「」付きということは何らかの謂れがあるということ。どんな謂れがあるのか?―それは、マタイの福音書が書かれた最古の写本(紀元66年頃)には、ルカの福音書と同様に「」の部分が入っていないが、その頃書かれた「使徒の教え」という使徒達が初代教会に残した書物には、「主の祈り」の後に、頌栄として「」の部分を付けて礼拝するようにと記されており、初代教会以来、礼拝の中で実際に加えられて祈られ、また、マタイの福音書が正式に編纂された時に、「」付きとなったのであろうというのが学者の定説です。また、そのために今日まで伝統的に教会では、「」を含めて「主の祈り」として祈り、また賛美しているのである。

 今日は、イエス様御自身の言葉ではないけれども、使徒たちが残していったこの主の祈りの最後の「頌栄の祈りの言葉」について、その持つ意味を一緒に考えて行こう。

【本論】

(1)先ず、神を神とする信仰の祈りの故に、神を褒め称えて終わるためである

 主の祈りが、「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように」のように、先ず頌栄=神を褒め称えることから始まっているように、頌栄で終わるためである。

マタイ6:13b:「〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕」

 「国」と言うのは、「御国が来ますように」のところで見たように、国民、国土、主権の3つからなっている。神は、天地万物、地上のあらゆる生物を作り、そしてアダムを造って地上を治めさせた。しかし、彼はその使命を果たせずエデンの園から追放されたが、神の計画は変わることなく、地上に人を置き、人によって地を治めさせている。パウロはそれを、ギリシャのアレオパゴスでギリシャ人に伝え、次のように言った。

使徒17:26:「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」

 今日、地球上には196の数の国があるが、それらは全て偶然に出来たものではなく、このように神が御自身の栄光のためにこの地上に造り出した国です。そしてその背後には、それを造り出した神の存在があり、その神が治める神の国の存在があり、神の栄光がある。ダビデはその神の支配と力、栄光と偉大さを見て、次のように褒め称えている。

詩篇145:1、10~13:「私の神、王よ。私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。」、「【主】よ。あなたの造られたすべてのものは、あなたに感謝し、あなたの聖徒はあなたをほめたたえます。彼らはあなたの王国の栄光を告げ、あなたの大能のわざを、語るでしょう。こうして人の子らに、主の大能のわざと、主の王国の輝かしい栄光を、知らせましょう。あなたの王国は、永遠にわたる王国。あなたの統治は、代々限りなく続きます。」

 使徒であるペテロも、その神の力と栄光の現れを見たので、それを振り返ってこう言っている。

Ⅱペテロ1:16~18:「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。『これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。』私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」

 ペテロは、これを体験した時、それが余りにも特別なことだったので、彼は何を言ってよいか分からないほど気が動転し、こう言ったとある。「・・・。『先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。』実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。」(マルコ9:5~6a)と。神の国の現われとその力と栄光を見ることは、このように正気を逸する特別なことです。では、私たちはこのような特別な体験がないと、神の国と力と栄光を褒め称えることが出来ないのだろうか?―いいえ、そうではない。ペテロの次の言葉に目を留めよう。

Ⅱペテロ1:19:「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」

 「預言のみことば」とは、聖書のみことばであり、みことばが約束している、一つ一つの神の約束のことです。ペテロは神の栄光を見る特別な体験をしたけれども、それよりも「さらに確かな」聖書のみことば、そのみことばが約束している一つ一つの神の約束に「目を留めている」とと良いと言ったのである。何故なら、ここでは文脈的には、「夜明け」=「主の再臨」を迎えるこの終わりの時代に現れる偽預言者、偽教師、これらの者が教える間違った教えに対する警告の言葉ではあるが、広く「神の言葉」という所に立って言うならば、神の言葉は生きて働いている神のことばであり、その約束は必ず実現されるのだから、その神様の真実に目を留めていれば良いということでもあるでしょう。つまり、神様の生きているみことばに目を留めているならば、神の真実を見ること、聞くこと、体験することが出来るということです。

 私たちは、主の祈りの後半部分で、「神を神とする信仰」に基づく私たちに関する祈り、①日ごとの糧を求める祈り、②罪の赦しを求める祈り、③「悪魔の試みに会わせないで、悪から救って下さい。」という祈りをした。そして、もしそれをするのなら、どうだろう?!―主がもしそう言われたならば、それは必ず実現する。叶えられるのです。そして、叶えられたならば、どうなるのでしょう?!―私たちはそれらの祈りの答えを体験したから、それを叶えて下さった神に対して神に感謝をささげ、その御名を褒め称えて、「〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。」と、主への称賛の言葉をささげるのではないだろうか!

 そして、最後に「アーメン」と言う。この「アーメン」は、祈りの最後の決まり文句、締め言葉ではない。「アーメン」とは、「その通り」、「然り」という意味の言葉です。

 

Ⅱコリント1:20:「神の約束はことごとく、この方において「しかり」となりました。それで私たちは、この方によって『アーメン』と言い、神に栄光を帰するのです。」

 「この方」とは神であり、イエス・キリストです。だから、このアーメンは、

(2)神を神とする信仰による、私たちの信仰の確信から来る告白のためなのである

 神は、御自身のみことばの約束により私たちをイエス・キリストによって救って下さった。それはアブラハム契約から始まり、数多く聖書に記されている。そして私たちをみことばによって生きる者として下さった。それはただ、神様の恵みによることでした。そして、神の子として天の父なる神に祈る祈りは、神が答えて下さるのです。だから私たちは神の真実を体験して確信し、「アーメン」と告白することが出来るのです。

【結論】

 私たちはこの神に栄光を帰し、感謝をささげ、信仰の確信をもって「アーメン」と告白しよう。

―祈り― 

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