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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

 

エズラ10:1~5

 

【タイトル】

「エズラ記(13)―勇気ある真の悔い改め―」

 

【本論】

V1:「エズラが神の宮の前でひれ伏し、涙ながらに祈って告白しているとき、イスラエルのうちから男や女や子どもの大集団が彼のところに集まって来て、民は激しく涙を流して泣いた。」

 

 このエズラの祈りは、心から自分たちの民が犯した罪を悲しみ、悔い改める祈りだった。そのような祈りには「涙」が伴うのだろうか、エズラは「涙ながらに祈って告白している」とある。

 

 涙は感情の現れです。その感情は悲しい時だけとは限らない。「感極まって」という言葉があるように、「嬉しい」という感情が極まった時に嬉し涙が流れ、「悔しい」という感情が極まった時に悔し涙が流れる。また、何か心打たれる体験、心揺さぶられる体験をした時にも、涙は感極まって流れて来る。ちょうど私たちの心の中にいろいろな感情の袋があって、その袋が一杯になったり、揺さぶられたり、場合によっては絞られたりすると涙が溢れるようにです。

 

 この時エズラは、何に心揺さぶられたのだろう?―それを考える時、そこに今日のテーマの「勇気ある真の悔い改め」とはどういうものであるかということを知る重要な鍵がある。それは;

 

※「心からのものである」ということ。「真実なものである」ということです。エズラは心から、嘘偽りなく、真実な心をもって、神の宮の前にひれ伏し、祈ったのです。そこには、前回のみことばの繰り返しになるところがあるが、3つのポイントがある。

 

(1)真実に、勇気をもって自分たちの罪を認め、罪を告白して祈った祈りであった

 

エズラ9:6~7:「私の神よ。私は恥を受け、私の神であるあなたに向かって顔を上げるのも恥ずかしく思います。私たちの咎は私たちの頭より高く増し加わり、私たちの罪過は大きく天にまで達したからです。私たちの先祖の時代から今日まで、私たちは大きな罪過の中にありました。私たちのその咎のため、私たちや、私たちの王、祭司たちは、よその国々の王たちの手に渡され、剣にかけられ、とりこにされ、かすめ奪われ、恥を見せられて、今日あるとおりです。」

 

 エズラはこの時、民の指導者の一人として、80年程前にエルサレムに帰還した民が犯していた雑婚の罪を、自分の罪であるかのように悔い改めた。罪人に同化し、罪の赦しを求めるには、勇気がいる。真実な心と勇気がある。エズラは、その心をもって神の前に出て、祈ったのである。

 

 するとどうなったのだろう?―「エズラが神の宮の前でひれ伏し、涙ながらに祈って告白している」と、「イスラエルのうちから男や女や子どもの大集団が彼のところに集まって来て、民は激しく涙を流して泣いた。」(V1)とある。人々も、男も女も子供たちも、皆が大集団となってやって来て、そして、共に涙を流して泣いた。彼らも罪を悔い改めて、泣いたのである。

 

 今日、政治の世界、経済界、スポーツ界、また最近は芸能の世界でも不祥事があるが、どこに、このエズラのような潔い姿、真実と勇気を持った指導者が居るだろうか?その結果、人々も涙と共に悔い改めに至らせるような遜った真実なリーダー、民の指導者がいるだろうか?私たち教会の世界でもそうです。人の欠点や失敗を取り上げ、また自分たちとは考えが違うからと、批判して離れて行く人達は居ても、エズラのように人が犯した罪を自分の犯した罪のように認め、神の前に悔い改める指導者がどこにいるだろうか?

 

※これは単に指導者だけの話ではない。私たち一人ひとりのことでもある。私たちは、このような者になろう。このような姿でいよう。次に、

 

(2)真実に、勇気をもって罪を認める「悔い改め」には、罪の赦しの希望がある

 

V2:「そのとき、エラムの子孫のひとりエヒエルの子シェカヌヤが、エズラに答えて言った。「私たちは、私たちの神に対して不信の罪を犯し、この地の民である外国の女をめとりました。しかし、このことについては、イスラエルに、今なお望みがあります。」

 神様は私たちが罪を犯した時、勇気をもって心から罪を認めて悔い改めるなら、神様は必ず赦してくれる。私たちが罪を犯した時、神様が私たちに求めているのはそのような心だからです。ダビデがバテ・シェバとの姦淫と、その姦淫の罪を隠すための夫のウリヤ殺しの罪を犯した時、彼は次のように祈った。

 

詩篇51:1~9:「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。…。御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。」

 

 このように言うことが出来たのは、彼は次のことを知っていたからです。

 

詩篇51:17:「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」

 

 パウロも、真実な、勇気ある悔い改めについて、次のように言っている。

 

Ⅱコリント7:10a:「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔いめを生じさせますが、…。」

 

※神様が求めておられる真実な、勇気ある悔い改めは、必ず救いに至るのです。

 

(3)また、真実な、勇気をもった悔い改めには、必ずその実が伴う

 

V3:「今、私たちは、私たちの神に契約を結び、主の勧告と、私たちの神の命令を恐れる人々の勧告に従って、これらの妻たちと、その子どもたちをみな、追い出しましょう。律法に従ってこれを行いましょう。」

真実の悔い改めには、このように、悔い改めに伴う実行が伴う。実が伴う。BPのヨハネも、イエス様も、人々に「悔い改めに相応しい実」を結ぶように言った。

 

・BPのヨハネ:マタイ3:7~9:「…。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。…。」

・イエス様:イエス様の教えは、殆どすべてが「悔い改めに相応しい実」を結ぶように奨める教えだと言ってもよい。

 

 エズラ記に戻る。―そして、彼らはそれ=「真実な、勇気ある悔い改め」を実行したのである。

 

V4~V5:「『立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。私たちはあなたに協力します。勇気を出して、実行してください。』そこで、エズラは立ち上がり、祭司や、レビ人や、全イスラエルのつかさたちに、この提案を実行するように誓わせたので、彼らは誓った。」

 

【結論】

 私たちの信仰生活というのは、最終的には私たち一人ひとりが、「私」と「神様」との関係の中でいかに真実であるか、いかに勇気があるかということです。「勇気があるか」ということは「自分の罪を認めて遜ることが出来るか」ということです。神とのそのような関係が大事なのです。

 

ローマ14:9~12:「キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。…。こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。」

 

※人がどうであるかではなく、大事なことは、自分と神との関係です。私たちは神との関係において、真実で勇気ある悔い改めの実、救われた者としての実を結んで行かなければならないのである。

 

―祈り―

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