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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

ローマ12:3~5

 

 【タイトル】

「主に在って(7)―主にあって、私たちは互いのもの―」

 

【本論】

 パウロは、前回の箇所、V1:「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と、「神のあわれみのゆえに、」私たちは救われたのだから、そのように私たちは神によって救われた者として、「私たちはひとりひとり、自分自身を神様に対して、生きた供え物、真実な捧げものとして捧げて行こう。」という、神様との関係の中での私たちの存在について学んだ。

 今日は、パウロはこの箇所で、V3:「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。」と、神様が自分に与えて下さった恵みによって、私たちに何かを語ろうとしている。それが、今日のテーマの、「私たちは、主にあって、お互いにそれぞれのもの、お互いのものである。」ということです。

 パウロは、彼の書いた多くの書簡の書き出して、自分のことを紹介する時に、表現はそれぞれ違っていても「自分は神のみこころによって人々に仕えるように召された者であること」を明らかにしている。つまりパウロは、彼自身がそうであるように、私たちもみな、何らかの形で神様に召され、その中で、私たちはお互いにそれぞれのものであるというのである。

 その時に大切なのが、V3b~V5:「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」と言うのです。それは、「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官」なのだから、と言うのです。つまり、どちらが上だとか、重要だとか言うのではなく、皆一人ひとり、「一つのからだ」=教会、そして、これは一つの家庭、一つの社会、一つの国、一つの世界でも言えることだが、「私たちはどこにいても、私たちはそこに置かれているその所で、お互いのものなのである。」という考え方、理解が大切だというのです。人は皆、神の恵みによって、それらの場所で「自分はこういう者である。」という器官としての働きが、能力が、賜物が与えられている。それが、V6~V8で語られている。

V6~V8:「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」

また、それは、Ⅰコリント12章でも語られていること。そして、そこで語られているポイントは、この箇所と同様に、すべての器官は、お互いのためのものであるということです。

Ⅰコリント12:20~27:「しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。…。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」

 この関係は初めに言ったように、教会の中だけのことでなく、私たちが置かれている社会の中でのことでもある。それが聖書全体のメッセージだからです。パウロもここでこう言っている。

V14~V18:「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」

 「だれに対しても」、「すべての人が」、「すべての人と」とあるように、教会の垣根を越え、誰に対しても、すべての人に対して、私たちはこのような姿であることが求められているのである。

【結論】

 では、これらのことを可能にするためにはどうすれば良いだろうか?―その答えが、V5:「大ぜいいる私たちも、キリストにあって」とあるように、「主にあって」ということである。私たちは、「お互い」という「横」の関係を見るときに、先ず私たちは「主との関係」、「縦」の関係を先に見なければならない。それは主の祈りのところでも学んだこと。主との関係を覚えて、互いの関係を見るのです。言い換えるなら、先ず主が私たちにどうであったのか、先ず主が私たちに何をしてくれたのかという、神様の恵みを覚えることなのです。

ガラテヤ5:13~15:「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。 律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」

 救われたこの自由を、互いに愛し合うために、互いに仕え合うために用いなさいという。その理由は、V14:「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という一語をもって全うされるのです。」と言う。主は、ある律法の専門家がやって来て、「すべての命令の中で何が一番大切か?」と訊かれた時、二つの大切な戒めを語られた。それは、①主を愛することと、②隣人を自分自身のように愛することであった。ガラテヤ書のこの箇所では、その二つを纏めて、「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という一語をもって全うされるのです。」と言った。それは、もし私たちが「主を私たちの主」と告白し、主を愛すると言うならば、それは隣人を愛することと同じことだと言うからです。お互いを愛し、お互いの者として、お互いに仕えて行くことは、主を愛することと同じなのです。

 イエス様はある時、終わりの時代の重要なメッセージとして次のことを弟子たちに語られた。

マタイ25:34b~40:「『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、…。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」

 ここに、今日結論がある。これは単なる善行の勧めではない。もし「主は私たちの主です。」と信じ、その信仰によって生きるのならば、私たちは互いに互いの者であるということを覚えて生きて行かなければならないのです。「主に在って」とはそういうことです。最後に「マザーテレサの言葉」を引用し、結局、私たちと主との関係がすべてであり、それによって私たちは互いのものであり、互いに愛し合って生きていかなければならない者であるということです。

―祈り―

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