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これまでのメッセージ

礼拝メッセージ:金子辰己雄師

August 11, 2019

【聖書個所】

ルカ23:34

 

​【タイトル】

「十字架上の7つの言葉(1)―父よ。彼らを赦してください。―」

【本論】

V1:「そのとき、イエスはこう言われた。」と言って、主は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」と言われた。このイエス様の十字架の言葉を言われた時の、「そのとき」とはどういう時だったのか、先ずそのことを考えてみよう。

V33:「『どくろ』と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。」とあるように、イエス様が十字架刑で処刑されるために連れて来られ、それも一人ではなく、他の二人の犯罪人と一緒に十字架に付けられた時のことでしょうか?―直接的には、そうです。しかしそれだけではない。この十字架刑がピラトによって宣告された時でもあり、それによって鞭打たれた時でもある。そのような刑罰を受けている間、ローマ兵や人々の嘲笑を受けていた時でもあり、また、そこに至るまで、ピラトは死刑にするには及ばないと民の指導者や祭司長、また人々に向かって語ったけれども、それでも「十字架につけろ。」(ルカ23:21)と、人々が叫び続けた時でもある。そのように、上げれば切りがないが、イエス様が公生涯に入られてから、イエス様が人々から嘲りや蔑み、妬みから来る拒絶の反応を受けたすべての時である。そして、「そのとき」というのを、このように十字架に掛けられたイエス様のこの時のことを中心にして見るならば、これは人類史上、つまりアダム誕生以来、今日まで、そしてこの先もイエス様の再臨の時まで、人々が罪の中に生まれ、罪の中に生きている今日の、またこれからのすべての「そのとき」を言うだろう。何故なら、イエス様が十字架に架かったのは、私たちのそのようなすべての時の、すべての罪から救うためだったからです。

Ⅰテモテ1:15:「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」とパウロが言う通りです。イエス様がこの世に来て下さったのは、罪の中に生まれ、罪の中に生きている私たちを、御自分の十字架の死によって罪から贖い出して下さるためでした。その時に言われた最初のことばが、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」という十字架上の言葉だったのです。これはまさに、私たちの救われなければならない深刻な罪の有様を示している。

 罪というのは、この世の犯罪のように、行ないではない。この世の法律で罰せられる罪というのは、あくまでも行ないです。戦時中は思想犯というのも存在したが、しかし今は誰も、あの人は「あんな恐ろしいことを考えているから。」と言って、それで捕まって有罪になることはない。

しかし聖書が言う罪は、思いの中にあるものです。行いはその結果として出て来るものです。

 イエス様の言葉に注目してみよう。イエス様は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」と言われたのです。「彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」と言っていることに注目して下さい。そうです!―イエス様が神様に赦しを求めているのは、彼らが、そして私たちが「自分で自分が何をしているのか分からない状態になっているから。だから、彼らを赦してください。」と言っているのです。

 罪というのは、そのように先ず思い、思考の中に生まれる。これが罪の本質あり、実態です。最初にアダムとエバが罪を犯した時のことをもう一度確認してみよう。

創世記3:6~7:「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」

 「いかにも好ましかった」というのは、「いかにも好ましく思えた。」ということです。このように、先ずエバの中に、そしてアダムの中に、神が食べてはならないと言われた善悪の知識の木の実に対して、「好ましい。」、「食べたい。」という思いが起こされたのです。これが罪の本質です。「それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」は、あくまでも結果です。他にも、イエス様は私たちの思いの中に起こる罪の実態についてこう言っている。

マタイ5:21~22:「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」

マタイ5:27~28:「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」

 どちらも、先ず思いの中で怒りが生じ、また「能無し」という思いが起こり、或いはまた、女性を見たときに、思いの中で先ず情欲が生じる。それが罪の実態だとイエス様は言われた。また、イエス様はこのようにも言われた。マルコ7:20~23:「…。『人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。』」と。

 しかし、私たちはこの思いの内に起こる罪の本質を考えてみる時、実は私たちはいつもそのような思いを持って生きているというわけではないのです。その思いは、何かが引き金になってその思いが起きる。欲望であっても、心配事であっても、私たちが置かれている日常の環境の中で、何かを見たり、聞いたり、つまりある刺激があることによって、その思いが起こるのです。これは、心理学的には「自動思考」と呼ばれるものですが、それを私たちは自分の意思や思いでコントロールすることは出来ない。自動思考という心のからくりは、実は神様が初めから私たちを造った時に、私たちの心の中に埋め込まれている神様の性質の一つでもあるからです。創世記1:31:「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」と、神様御自身も御自分の造られたすべてのものを見て、「見よ。それは非常によかった。」と言われたほどだからです。その思いの性質がサタンに悪用されて、エバとアダムは結果的に罪を犯してしまったのです。

【結論】

 ではどうすれば、私たちはそのような思いを引き起こす罪の誘惑に打ち勝つことが出来るでしょう?―答えは、出来ません。心理学的に人間に自動思考というものがある限り、またヤコブが、ヤコブ1:14~15:「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」と言っているように、人にはそれぞれこのような欲がある限り、決して人は罪の誘惑に打ち勝つことは出来ない。だからイエス様の十字架の贖いがあるのです。もし自分たちに出来たのなら、イエス様の十字架は必要なかったでしょう。

 

 私たちにはどうしてもイエス様の十字架が必要だったのです。

ローマ8:3~4:「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」

※だから私たちは、この十字架の上で語られたこの言葉を、私たちの救いのための重要な言葉として受け止めて、そして、それによって私たちの罪の赦しが、贖いが為し遂げられたということを、今日も深く心に留め、感謝し、このイエス様だけに眼を留めて行かなければならないのです。

―祈り―

 

 

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