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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

ルカ23:39~43:

 

 【タイトル】

​主の十字架上の7つの言葉(2)「あなたはきょう、わたしとともにパラダイ

               スにいます。」

【本論】

 イエス様が十字架に付けられた時、二人の犯罪人も共に十字架に付けられた。十字架刑はローマの法律によるならば、ローマ帝国に反逆するような重罪を犯した犯罪人に課せられる極刑であった。鞭打ちの後、約50kgもある十字架の横木を背負わされ、ピラトの法廷からカルバリの丘とされる所までの約1kmを歩かされ、刑場に着くと、背負ってきた横木に、長さ約18cm、直径約1.1cmの釘で両手首を釘付けられ、足も両足揃えて釘が打ち込まれた。そんな状態で十字架に架かるわけだから、最終的には受刑者は皆呼吸困難になって、最後は窒息という形で死ぬ最も残酷で苦しい処刑法であった。そんな十字架刑にイエス様は付けられ、また二人の犯罪人も付けられた。

 この二人に、イエス様の前にいる全人類を代表する2種類の人の姿を見ることが出来る。

V39:「十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、『あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。』と言った。」

 似たような者に指導者やローマ兵がいる。指導者は「…。『あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。』」(V35)と言った。ローマ兵は「…、『ユダヤ人の王なら、自分を救え。』と言った。」(V36~V37)しかし彼の姿はそれ以上に不遜な姿だった。「自分と私たちを救え。」と言っているのだから。彼は明らかに、イエス様を信じない人であった。ではもう一人の犯罪人はどうだったか?

V40~V41:「ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。『おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。』」

 

 そして、こう言った。

V42:「『イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。』」

 何処から彼はイエス様に対する信仰を持ったのかは分からない。しかし彼のこの言葉に、明確に彼がイエス様が救い主であり、イエス様が御国の王であることを信じている信仰を見てとることが出来る。もう一人の犯罪人は、神を信じる人、神を恐れる人だった。

◎では、この神を信じる人、私たちクリスチャンとはどういう人か、また、信仰の結果与えられる救いとはどういうものか、イエス様の十字架の言葉の中に、見て行こう。

(1)クリスチャンは、信じた瞬間に救われた者、また救いは、信じた瞬間に与えられるもの。

V43:「イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」

 明日ではない。明後日ではない。死んでからではない。私たちは誰もがイエス・キリストを私たちの救い主として信じるなら、一瞬のうちに救われ、救いは与えられるのです。そして、

(2)私たちの霊、たましいは、その瞬間、パラダイス(天の御国)にある。

V43:「イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」

 信仰告白は、自分の現住所を役所に届け出るようなもの。そしてその届けを出して受理された瞬間、私たちはそこの住民となる。そしてさまざまな恩恵に預かる。それが救いというものです。

(3)救いと共に受ける恵み

①主は私たちといつも共に居て、決して離れることなく、歩みを導いて下さる。

V43:「イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」

ヘブル13:5d:「…。わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

②主はやがて再臨の時、私たちを天の御国へと招いて下さる。

ヨハネ14:3:「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」

ピリピ3:20:「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」

 このように、私たちはイエス様を信じた瞬間に救われて、神の国の市民になるが、そうすると、恩恵だけではなく責務も生じる。それが、主の再臨までのクリスチャン生活のすべてです。

(4)クリスチャン生活における責務

 唯一クリスチャンとしての責務は、どんなことがあっても信仰を全うするということ。イエス様に従って行くことです。「義人は信仰によって生きる。」(ローマ1:17)とある通りです。だからまた容易ではないとも言える。何故なら、私たちの生まれながらの性質は苦難を避け、楽な方へ傾くからです。しかし救いには苦難が伴います。そのことを私たちは知らなければならない。

ヨハネ16:33b:「あなたがたは、世にあっては患難があります。」とイエス様は言われた。

 このことを、イエス様を信じて救われたもう一人の犯罪人の姿に見てみよう。彼は、イエス様に対する信仰をどういう状態で告白しているか?―彼は十字架に付けられた状態で告白している。指導者やローマ兵たち、また初めの犯罪人は、恰もイエス様が自分を救い、十字架から降りたら信じてやろうと言わんばかりにイエス様を侮った。しかしこの犯罪人は、十字架の苦難の中で、仮令その苦難から救われなくても、イエス様を救い主として信じたのである。

 人は条件付きで信仰を持ち易い。しかしイエス様は無条件で私たちの贖いをして下さった。だとするならば、私たちも無条件でイエス様を信じなければならないのではないだろうか。それが私たちの信仰であり、信じ続けるという責務です。ここにクリスチャン生活のすべてがある。自分の生まれながらの性質を十字架に付け、無条件にイエス様イエス様に従って行くのです。イエス様だけを王の王、主の主として信じ、従って行くのです。

マタイ16:24~25:「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」

【結論】

 「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいますか?」

 信仰は車のシフトをDやRにするようなもの。N(ニュートラル)の時は何の負荷も無くて楽だが、エンジンであるイエス様に繋がっていないので、車として死んでいる。信仰生活にニュートラルはないのです。イエス様につながり続け、どんな時も従い続けて行こう。

―祈り―

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