主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

マルコ10:46~52

【タイトル】

イエス様を立ち止まらせた盲人

【本論】

V46a:「彼らはエリコに来た。」

エリコは辺りで数少ない泉が湧き出る緑と水の豊かな地であった。そのため古くから人々が住みつき、イエス様の時代には、ヘロデ大王もそこにリゾートのための別荘を建てるほどの場所だった。そんなエリコにイエス様は何のために来たのか?―それは、「さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。」(マルコ10:32a)とあるように、エルサレムに上るためでした。エリコはエルサレムに向かうエリコ街道の起点だったからです。

 そして、この時のイエス様の様子は尋常ではなかったとある。「イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。」(マルコ10:32b)とあるように。何故イエス様は、弟子たちに恐れを覚えさせるような様子でエルサレムに向かって行かれたのだろう?―それは、「すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。『さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。』」(マルコ10:32d~34)とあるように、これからエルサレムに上り、救い主としての使命を果たすのだという使命感を持って凛として歩んでいたからである。そんなイエス様をもはや誰も止めることは出来ない。もし止めようでもしたら、イエス様は何を言われるか分からない状況である。

 しかし、かつてそのようなことをした者がいた。ペテロです。その時ペテロは、イエス様から厳しい言葉を浴びせられた。「…。するとイエスは、彼らに尋ねられた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えてイエスに言った。『あなたは、キリストです。』…。それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。『下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」(マルコ8:27~33)だからこの時は、人が何を言おうと、どんなことをしようと、またサタンでさえもイエス様のエルサレムに向かう足を止めることはできなかったのです。

 しかしその足を止める男が現れた。そう、エルサレムに向かう道端で物乞いをしていた盲人バルテマイでした。当時のイスラエルでは、盲人は物乞いをして生きて行くしか生きる手段を持っていなかった。だからバルテマイもエリコからエルサレムに向かう道の道端で物乞いをしていた。そんな中、彼の前を通り過ぎようとする人がナザレのイエスだと聞くと、彼は『ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。』と叫び始めた。」(V47)のです。余りに叫ぶので大勢の人が黙らせようとして嗜めたが、「彼はますます、『ダビデの子よ。私をあわれんでください。』と叫び立てた。」(V48)と言う。V47の「叫び始めた。」は、(ギ)クラゾー(大声で呼ぶ。金切り声を出す)で、次のV48の「叫び立てた。」は、(ギ)エ(ク)・クラゾーで、「エク」=(ギ)「内から外に」という意味があるように、彼は体中の力をもって大きな声で叫んだのである。そして抄訳聖書では、「ダビデの子のイエスさま。今、私をあわれんでください。」(V47)、「ダビデの子よ。今、私をあわれんでください。」(V48)と叫んでいたというのです。これは何を意味するのか?―これは彼の必死の叫びでもあり、また彼のイエス様に対する確信をもった信仰の表われでもある。何故なら彼はイエス様に向かい、「ナザレの子」と聞きながら、「ダビデの子のイエス様」(V47)、「ダビデの子よ。」(V48)と呼び掛けているからです。「ダビデの子」と言うのは、聖書で預言されているイスラエルに現れる救い主のことを指している。彼はどのようにしてその信仰を得たのか分からないが、神が遣わすと約束しておられた救い主が現れたのだから、どうして目の前におられるイエス様に対して、「憐れんでください。」と叫ばないではおられるでしょうか!

 彼は、何のためにイエス様がこの地上に来たのか、また何のためにイエス様がエルサレムに上るのかを知っていて、そして、イエス様に飢え渇いて求めたのです。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)という目的を知っていたのです。

※この彼の信仰が、誰も立ち止らせることの出来なかったイエス様の足を立ち止まらせたのです。それでイエス様は、彼を呼んだ。すると彼は、「盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。」(V50)とある。

※ここにもう一つ、彼の、イエス様を立ち止まらせるほどの信仰が持っている重要なポイントがある。それは、信仰に基づく思い切った行動です。彼は、「上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。」のです。「上着」は彼の大切な持ち物。彼はどこに行くのでもこの上着を着ていた。夜になればブランケットの代わりになり、雨の日は傘の代わりになり、風が吹いてくれば風除けの代わりになる。彼にとっては上着は必需品、自分のいのちの次になるほど大切なものだった。彼はそんな大切なものを、イエス様に呼ばれて、もう自分にはこんな上着は要らないと脱ぎ捨て、すぐに立ち上がってイエス様の所に行ったのです。そして、「わたしに何をしてほしいのか。」(V51)とイエス様に言われると、「先生。目が見えるようになることです。」と言った。(V51)すると、どうなったのか?―「するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。」(V52)彼は見えるようになり、イエスの行かれる所に付いて行くようになった。救われて、イエス様に従って行く者になった。きっと彼は、あのペンテコステの日に、聖霊を受けた120人の中の一人ではなかっただろうか。彼の人生は全く180度変わったのです。ただ盲人から目の見える人になっただけではなく、救われ、イエス様に従って生きて行く人に生まれ変わったのです。

【結論】

 これはどうして起きたのか?―何がイエス様を立ち止まらせ、救いのみわざ、奇跡のみわざを起こさせたのか?―それは、盲人バルテマイのイエス様に対する信仰と飢え渇きと行動です。

 今日も皆さんにチャレンジしたい。イエス様に向かって叫ぶことを。上着を脱ぎ捨て、立ち上がってイエス様の前に行くことを。イエス様に向かい、信仰を持って、飢え渇いて、あなたが今本当に求めているものを下さいと求めることを。「もう分かっています。もう知っています。もう十分です。」という「満足」という上着を脱ごう。「今更もう駄目でしょう。もう年だから。もう遅いから。」という「諦め」の上着を脱ごう。「まさかこんなことは無理でしょう。」という「不信仰」の上着を脱ごう。そして立ち上がってイエス様の前に行こう。「わたしが来たのは、…豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10b)「貧しいものは幸いです。…。」(マタイ5:3)、「求めなさい。そうすれば与えられます。…。」(マタイ7:7~11)、と言います。38年間ベテスダの池の周りにいた男が癒されたように、18年間長血を病んでいた女が癒されたように、将軍の衣装を脱いで癒されたナアマンのように、イエス様に対する信仰を持って、今の上着を脱ぎ捨て、飢え渇き、立ち上がってイエス様の前に行こう。

―祈り―

これまでのメッセージ

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