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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

 ネヘミヤ1:6~11

【タイトル】

ネヘミヤの祈り(2)

【序論】

 ネヘミヤは、神殿再建後のエルサレムの町の状態や人々の霊的状態のこと、即ち、崩壊状態のことを聞いて悲しんで涙を流して神に祈り始めた。今日はその祈りの続きの部分です。ネヘミヤはどのような祈りをしたのか?―その祈りを学び、私たちの祈りにして行きたい。

【本論】

V6:「どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。」

 この祈りはとても大切な祈りです。3つの点で;

(1)神は耳も目も、また耳や目だけでなく口や手、また私たちと同じ心を持っている神だからです。

 ネヘミヤは神に対し、「あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。」と言った。それは、神は耳も目を、また耳や目だけでなく口や手、また、私たちと同じく心までも持っている神だからです。

詩篇49:1~3:「…。私の口は知恵を語り、私の心は英知を告げる。」

 「私の口は知恵を語り」は分かると思う。「私の心は英知を告げる」とは、「私の心は深く思い巡らすことが出来るので、さまざまな事を感じ、考えて、理解を与えることが出来る。」という意味です。つまり神は、心を持つ神として、知性、感情、意思をフル動員して物事を感じ、考え、正しく理解を与えることが出来る神なのだということです。そのように神は、口を持っている神として私たちに語り、心を持っている神として私たちに接して下さる。だから私たちは神に対して、このように祈ることが出来るのです。この祈りが重要であることの2つ目の理由は;

(2)神は耳だけではなく、目を開いて私たちの祈りを聞かれる神だからです。

 彼は神に対し、「…、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。」と言った。これはどういうことか?―それは、神は私たちの祈りを耳で聞くだけでなく、祈っている心を目で見ているということです。神は私たちの心を見ておられるのです。どんなに言葉を重ねて祈ろうと、また何も言葉が出ないような祈りでも、X線が物を見通すように、神は心の中を見ておられるのです。私たちの心の中はすべて、神の目に曝け出されている。私たちは神の前に何一つ隠し覆うことは出来ない。だから私たちは包み隠さず、心を注ぎだして神に祈ろう。神はそのような祈りを求めている。それは祈りだけではなく、信仰生活のすべてに関してもそうである。

(3)しもべとして遜って祈る祈りに神は聞いてくださるからです。

 ネヘミヤの祈りの中に、何回「しもべ」という言葉が出て来るだろう?

 

V6~V11:「どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。私たちは、あなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった命令も、おきても、定めも守りませんでした。しかしどうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを、思い起こしてください。『あなたがたが不信の罪を犯すなら、わたしはあなたがたを諸国民の間に散らす。あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとい、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしはそこから彼らを集め、わたしの名を住ませるためにわたしが選んだ場所に、彼らを連れて来る。』と。これらの者たちは、あなたの偉大な力とその力強い御手をもって、あなたが贖われたあなたのしもべ、あなたの民です。ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」

 

 8回です。ネヘミヤは8回、彼の祈りの中で、自分に関しては「このしもべ」と呼び、モーセやイスラエルの民に関しては「あなたのしもべ」と呼び、民が神に対して犯して来た罪を告白して、神に立ち返るならばそれを赦すという、神がモーセに約束した約束に立って神の御名を辱めた自分たちの罪の赦しを求めている。ネヘミヤは、エルサレムの町と民の惨状を自分のことのように悲しんだように、彼らの罪も自分の罪のように受け留め、神に赦しを求めているのである。それは結局、彼が自分のことを同族のイスラエルの民と同じ「しもべ」として同一視する意識から生まれて来る罪認感から来るのです。この罪認感は、「あの人と私とは違う。」、また「私が罪を犯したのはあの人が悪いのだ。」と、アダムがエバに責任転嫁したような言い逃れの意識の中では生まれて来ない。私たちは皆、神の御前では誰もが神の「しもべ」です。この世的にどんな地位にあろうとも、どんな職務を持っていても、皆等しく神のしもべなのです。彼がそのとき自分がしもべとして仕えている王との関係を「そのとき、私は王の献酌官だった。」(V11)と言って、主人としもべとの関係がどういうものか分かっているように、神と自分たちとの関係も分かっていて、しもべとして神に祈っているのです。

※私たちの祈りも、このように神の関係において私たちがしもべであることを真に理解し、しもべとして遜って祈るということは大切である。そのような祈りに神は答えられるのである。

【結論】

 最後に、次のみことばに目を留めてみよう。

ヨハネ13:12~17:「イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。」

 ここには、「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」という、兄弟姉妹において互いに遜って仕え合うことの大切さが教えられている。しかしここにはもう一つ、私たちと主との大切な関係が示されている。それは、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。」とあるように、私たちとイエス様との関係において、私たちがイエス様に対して「しもべ」として、イエス様が示された遜りの心をもって仕えることの大切さです。

※イエス様は私たちの主であるにも関わらず、私たちを救うためにしもべの姿になり、十字架に架かって下さった。それはイエス様の洗足のすがたでもある。イエス様は単にポーズとして十字架に架かって下さったわけではない。私たちの救いのためにいのちを掛けて十字架に架かって下さったのです。このような主に対して私たちが出来ること、しなければならないことは何か?―それは、私たちも手を抜かず、心から遜って主に仕えることです。そのように生きるとき、私たちは祝福されるのです。救いは恵みとして信仰により無代価で与えられるが、救いに伴う恵み、例えば、愛、平安、喜び、…というような御霊の実や、キリストの姿に変えられているという祝福は、神を神として従って行く中で与えられて来るのです。ハレルヤ!

―祈り―

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