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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

October 5, 2019

【聖書個所】

 ヨハネ15:5

​【タイトル】

主に在って(9)「主にあって私たちが結ぶ2つの実」

【本論】

 ここには、「主にある」を意味する私たちと主との関係、私たちと主との信仰による関係が表わされている。信仰というのは、信頼してつながっている状態です。だから、私たちは「主にある」ならば、私たちは多くの実を結ぶことが出来るのです。先ずこれが、今日の第一のポイント。

(1)私たちは「主にある」ならば、私たちは多くの実を結ぶことが出来る

 結ばれる実は「多くの実」とあるように、いろいろな種類の実がある。神様との関係の中で結ばれる「愛・喜び・平安」の実、人間関係の中で結ばれる「寛容・親切・善意」の実、そして、自分自身に対して結ばれる「誠実・柔和・自制」の実、私たちが主に信頼してつながっているならば、これらの御霊の実は結ばれる。

 次に、私たちの夢や幻が実現したという意味での実が結ばれたという人もいるだろう。また、夢や幻というほどではないが、日々の小さな祈りが答えられたという意味での実もあるかと思う。或いは、思いもよらず起きた祈りの課題に対し、それが解決したという実もあるだろう。―病の癒しの実、健康守りの実、経済的祝福の実、仕事の守りの実、心配していた仕事がうまく行ったという成功の実、希望校に入学することが出来たという受験合格の実、また希望していた仕事、会社に入ることが出来たという就職の実、その他いろいろな実があると思う。

 これらはみな祝福の実です。神様は私たちにこれら実をたくさん結んでほしいと願っている。

ヨハネ15:7:「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」また;

マタイ7:7~11:「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」

※だから、主に求めて行こう。神様は私たちに、神様に求めることを求めておられる。私たちが子供たちに良いものを与えたいと願っているように、そのように、それ以上に、神様は私たちを祝福したい、祝福したいと願っている。だから、求めて行こう。

 しかし次に、そこには条件があるということです。求めるものは何でも与えられるというわけではなく、V5:「わたしもその人の中にとどまっているなら」、V7:「わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」とあるように、主のみこころと一致するならば、それは叶えられる。

Ⅰヨハネ5:14:「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」

例話:お父さんが乗っている車を求める子供に対する父親の答え。小さな子供にはミニチュアの車を買って一緒に遊ぶだろう。中学、高校の子供には、免許が取れる年齢になったら与えよう、それまでは待てと、ケースバイケースで相応しい対応をするだろう。

※神様もそれと同じで、主のみこころと一致するならば、求める人にとって最も相応しい方法、タイミング、やり方で、私たちにとっての祝福の実を、それも多く結ばせて下さる。

 そのことを、ここではもう一つ別の言い方で表現されている。

(2)私たちが主の弟子になることにより、主が栄光を受ける実を多く結ぶことが出来る

ヨハネ15:8:「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」

 この実は私たちのための実ではない。主が栄光を受けられるための、主のために結ばれる実です。

例話:さきほどの子供が父親に車を求めるとき、もし子供のその求めままに父親が答えたら、父親は人々から何と言われるだろうか?―それは決して父親の栄光を表わすものではない。また、もし父親が自分の求めに答えてくれないからと言って、免許もないのに、中学、高校の子供が父親の留守の間に、鍵を持ち出して運転をし、事故を起こしたり、警察に捕まったりしたら、それは監督不行き届きとして、父親が栄光を失う。

※つまり、私たちが「ぶどうの枝」として主にあって結ぶ実には、私たちの祝福のための実と、主の栄光のための実の2つの実があるけれど、その2つの実は、実は別々のものではなく、私たちの側から見た実か、神様の側から見た実かの違いであって、私たちのぶどうの枝に結ばれる同じ実なのです。私たちの側からの実とは、私たちにとっての祝福の実であり、神様から見た実とは、神が栄光を受ける実です。

※ところが、ここに問題が生じる。私たちが祝福の実を結べば結ぶほど、神が栄光を受ける実を結ばなくなってしまう。最終的には、私たちはぶどうの枝として全く実を結ばなくなってしまうということが起きるのです。それはどういうことかというと?

※私たちは祝福の実を結べは結ぶほど、私たちは自分の枝に結ばれたその祝福の実に心を奪われ、本体のぶどうの木である主に対する信仰、主にとどまる、主を主とする信仰を失ってしまうからです。私たちが、自分たちのために結ばれた実に心を奪われ始めると、ぶどうの木本体よりも、私たちのために結ばれた実の方が大切になり、ぶどうの木につながること、ぶどうの木の栄光には関心が行かなくなってしまう。何故なら、私たちのうちには

肉の性質が働いていて、肉の性質は利己的な性質なので、自分にとって良いものを受ければ受けるほど、それに対する欲望が引き起こり、歯止めが利かないほど、欲望に支配されてしまいがちになるからである。その良い例がエバであり、ヤコブもその欲望について次のように言っている。

ヤコブ1:14~15:「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」

 だからイエス様は、私たちが主にあるならば、次のようでなければならないと言うのである。

マタイ16:24~25:「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」

 そうしなければ、「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」(ヨハネ15:6)のようになると、警告されるのです。

【結論】 

 だから、私たちは主に在る者として、主の弟子として、結ばれた実に目を奪われず、主にのみ目を留め、繋がっていよう。従って行こう。

ヨハネ5:8:「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」

 

―祈り―

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