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これまでのメッセージ

38周年記念主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

October 13, 2019

【聖書個所】

使徒1:8

 

​【タイトル】

​教会にとってなくてはならない2つの火

【序論】

 この箇所は、二つのメッセージに分かれる。一つ目のメッセージは、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受ける」というメッセージであり、二つ目のメッセージは、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、私たちは、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」というメッセージです。今日は、この二つのメッセージのポイントに目を留める。

【本論】

 では、一つ目の「力を受ける」とは何のことか?―それは勿論、福音宣教の力のこと。

 

(1)聖霊の火は、福音宣教の力である

 イエス様は、まだペンテコステの日の出来事が起きて教会が誕生する前、弟子たちに「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)と命じられた。しかし、その時点では彼らはまだ出て行きませんでした。それは、イエス様が、その力を送るまでは都に留まっていなさいと命じられていたからです。(ルカ24:49、使徒1:4)

 しかしその日がやって来て、その火が彼らの上に臨み、彼らは力を受けた。語ることの出来ない外国の言葉を語り出して、イエス様の、全世界への福音宣教命令の先駆けとなったのです。

※福音宣教にはこの火が必要。この火がなければ、私たちは罪に満ちているこの世界に出て行って福音を語ることはできない。福音は、「救いを得させる神の力」(ローマ1:17)だからです。

◎ここで、福音宣教の先駆けとなった聖書中の人物に目を留めてみよう。―モーセです。モーセはエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を、その支配から救い出した人物だった。

出エジ3:1~10:「モーセは、…。すると【主】の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」【主】は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ。』と仰せられた。・・・。今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。』」

 モーセにエジプトから同胞を救い出すという神からの使命が与えられた。それはモーセにとっての福音宣教命令である。この時の出来事は、彼にとってのペンテコステの出来事のようなもの。彼が見た「火で燃えているのに、燃えていかない柴」とは、モーセ自身のことであり、この時、彼の上で燃えていた火は、ペンテコステの日に弟子たちが受けた火、聖霊の火である。

 モーセは40年前、自分の力で同胞を救い出そうとした。しかしそれに失敗し、彼は荒野に逃げ出した。彼は聖霊の火を受けていなかったからである。しかしこの時、火が燃えているのに燃え尽きない不思議な柴を見た。柴は名もない小さな、弱い潅木。ちょうどこの時のモーセのよう。彼は自分の民をエジプトから救出するのに失敗し、エジプトの王子としてのプライドも何もかも砕かれた荒野の柴に過ぎない存在だった。しかし、その柴に火が点いたのである。ちょうど役立たずだったペテロや弟子たちの上に、聖霊の火が臨んで、彼らが変わったようにである。

 モーセは、聖霊の火をいただいてエジプトに下り、民の救出のための働きをした。福音宣教に行き、民を罪の奴隷状態から救い出す働きに預かったのである。

※このように、ペンテコステの日に臨んだ火は福音宣教のための火であり、その火がなければ私たちは福音宣教のために出て行くことは出来ない。火がなければモーセが失敗したように、私たちも失敗するだろう。だから、聖霊の火を求めよう!

(2)聖霊の火は、私たちを証人とする力です

使徒1:8:「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 「わたしの証人となります」ということは、イエス様のために死ぬまで忠実に生きるということ。「証人」=(ギ)「マルチュロス」には殉教者という意味もある。聖霊の火が臨むと、ペテロたち12使徒やその他の多くの弟子たちが福音宣教のためにいのちを捧げて仕えたほどに、人物が変えられた。イエス様のために、福音宣教のために、死をも恐れないほど大胆な人物に変えられた。生きる目的がただイエス様だけになり、その他の人間的な目的はすべて聖霊の火で焼き尽くされ、焼き尽きない証人としての姿だけに変えられたのである。

※「キリストの証人になる」ということはそういうこと。モーセの場合を見てみよう。

出エジ4:24~26:「さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。【主】はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。そのとき、チッポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り、それをモーセの両足につけ、そして言った。「まことにあなたは私にとって血の花婿です。」そこで、主はモーセを放された。彼女はそのとき割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。」

※包皮を切り取り、それを付けるというのは聖別のしるし。神様は、初め「モーセを殺そうとされた。」とある。それは、神様がモーセをエジプトに遣わすに当たり、ただ力だけを与えたのではなく、その使命に聖別するためだった。包皮はその聖別のしるしである。聖別には二つの意味がある。神のために選び分けられるという聖別と、この世と分けられるという聖別である。

◎イエス様は、ルカ12:49~52でこう言われた。

ルカ12:49~53:「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」

 イエス様がここで「投げ込む」と言っている火は聖霊の火です。そしてその火は、ペンテコステの火に弟子たちに与えられた福音宣教の火であり、この世と分離させる火であった。ここに、イエス様がこの世に投げ込まれる火、聖霊の火の意味がある。それは、私たちをイエス様のために忠実に生きる者とする聖別の火である。

【結論】

※これから私たちは39年目に入って行く。これからも変わることのない教会の使命である福音宣教とイエス様とのために生きるキリストの証人として生きて行こう。そのためにも聖霊の火を受けよう。求めて行こう。

―祈り―

 

 

 

 

 

 

 

 

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