主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

Ⅰコリント16:19

【タイトル】

主にあって(10)「主に在って、結びの言葉」

【序論】

 皆さんは既に、他のクリスチャンから手紙を貰い、それらの手紙の末尾に、「主に在って」、或いは「在主」という結びの言葉が使われているのをご存知だと思う。これは日本で一般的に使われている「敬具」、女性が使う「かしこ」、男性が使う「恐惶謹厳」(きょうこうきんげん)に当たる。どちらの意味も「恐れかしこんで申し上げます」ということである。今日はこれらの結び言葉を少し頭の隅に置きながら、クリスチャンの手紙の結び言葉として使われる「主に在って」という言葉の持つ意味合いを、今年のテーマの結び言葉として分かち合って行きたいと思う。

【本論】

 その意味を考えるのに、3つの鍵の言葉がある。

(1)「教会」という言葉。

V19:「アジヤの諸教会がよろしくと言っています。アクラとプリスカ、また彼らの家の教会が主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。」

 ここには、「アジヤの諸教会」、また「彼らの家の教会」という風に、教会という言葉が上げられている。そして、それらの教会から「よろしく」という挨拶の言葉になっている。この時実際にパウロがこの手紙をコリントの教会に書き送っているのは、「アジヤの諸教会」の中の一つ、「アクラとプリスカ、また彼らの家の教会」があるエペソの教会からであった。この「アジヤの諸教会」の中には他にも教会があったであろう。それが「諸教会」という言葉で表わされているのである。つまり、「諸教会」という言葉から来るように、当時、既にいくつもの教会があった。

 ここで、教会ということについて考えてみたい。カトリックの場合には全体が一つの教会の組織になっている。しかしプロテスタント教会の場合、1517年の宗教改革以降、歴史的に多くの教会教派が誕生し、現在、日本だけ見ても約160近くの教会組織あり、それらのどこにも属さない単立の教会を含め、約8,000近い教会があると言う。全世界的に見たらいったい幾つの教会があるか分からないが、そのように、「諸教会」という言葉を通して、教会には数えられないほどいろいろな教会があるということ。教会というものはそのようなものだと言うことである。

 また一つの教会の中を見ても、そこにはいろいろな人が集まって一つの教会になっている。このように、大きな意味での教会全体、また一つの教会の中の兄姉を見ても、さまざまに異なった特徴、歴史、個性、性格の教会、人々が集まって一つの教会=キリストのからだ(Ⅰコリント12:27)を作っているということです。それが、「主にあって」ということです。

 パウロは、こう言っている。「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」(エペソ4:5)。そして、「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」(Ⅰコリント12:13)その結果、「…、器官は多くありますが、からだは一つなのです。」(Ⅰコリント12:20 )と言う。

 パウロがコリントの教会にこの手紙を送った時、コリントの教会は分裂の問題を抱えていた。(1:10~17)だから、尚のこと、この「主に在って」という結びの言葉は重要な意味を持っていただろう。今日でも、もし私たちが自分の考えや立場などに固執し、異なる意見や立場にある人達を受け入れないとするならば、一つの教会も、大きな意味での教会も、容易に分裂の危機に瀕する。し