2020年11月1日 主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

マタイ5:27~30

【タイトル】

聖い生き方をする敬虔な人(12)「たとえからだの一部を失っても」


【本論】

 今日もマタイの山上の垂訓から、相異なる2つのことに目を留め、聖い生き方をする敬虔な人の姿を学んで行きたい。ここで取り上げられている相異なる2つのものとは、Ⅴ29~Ⅴ30に出て来る「右の目」また「右の手」という体の一部に対する、同じ体なのだけれども、その全体との違いのことです。イエス様は、その二つの大きさの違いを取り上げて、重要なことを語ろうとしている。それがここのテーマであり、結論から言うと、それは、「聖い生き方をする敬虔な人の姿」のことである。そして、その教えへの導入のため、イエス様はⅤ27~Ⅴ28で、「姦淫してはならない。」という十戒の中の戒めを取り上げて、今日のテーマである「からだの一部を失っても、からだ全体がゲヘナに投げ込まれるより、よいのだ。」ということに結び付けようとされている。実際に目に見える姦淫という大きな行為を行わなくても、目に見えることのない、人の目には全く見えない心の中の行為、それを小さい行為とするならば、それさえも、実際に姦淫と言う大きな行為を行なっていることと、それは何ひとつ変わることはないということです。例えば、横断歩道の信号待ちの時、心の中で「車も走っていないのだから渡ってしまおう。」と、心の中でそのように思うだけでも、それは実際に信号無視しているのと同じだということ。ここに、イエス様による律法の理解と基準があり、この個所でイエス様は弟子たちに天の御国の律法の基準が教えようとされているのです。イエス様は、Ⅴ20でこう言われている。


Ⅴ20:「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」


 律法学者やパリサイ人たちは、律法の文字面だけに目を留めて、それを彼らの行為に当て嵌めて、自分が義であるかどうか、人が義であるかどうかだけを言っていた。しかしイエス様は、天の御国の律法の基準により、目に見える行為だけではなく、心の中の小さなことも見て、それで義であるかどうかを決めるというのです。だから、「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」というのです。


※イエス様は、その天の御国の基準に結び付けて、今日のみことば、Ⅴ29~Ⅴ30:「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」と言われた。それは、ちょっと読むと、却ってこのことばに躓いてしまうほど、体の一部を選ぶか、体全体を選ぶか、白か黒かという、私たちの神に対する信仰の徹底さが求められる私たちへのメッセージである。それは、この終わりの時代に生きる私たちに対する聖い生き方をするかしないか、敬虔な者として生きるか生きないかを問うメッセ―である。


 やがて「その日」(Ⅱペテロ3:9)になると、天の万象はみな焼け溶けてなくなってしまう。罪がまつわりつく不完全なものは皆崩れ落ちてしまい、完全に聖いもの、敬虔な者だけが残される。だから、たとえ一部を失っても、全体が滅んでしまうよりはよいと言うのです。これは足し算引き算で選ぶような、消極的な選択のように見えるかもしれない。しかしそうではない。これは積極的な選択です。何故なら、「天の御国における義」というのは、何ものにも代え替えのないものだからです。「天の御国における義」というのは、私たちの得ている「罪の赦し、救い、永遠のいのち」ということだが、私たちはそれを、私たちの行ないや努力や、私たちの何かによって得たのではなく、一方的に神の恵みによって得ることが出来たからです。


ローマ3:23:「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められたのです。」