2020年11月15日(日) 主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

マタイ13:1~18

​【タイトル】

「聞く耳で聞く者は幸いです。」

【本論】

Ⅴ1~Ⅴ3:「その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。」とある。


 この時、イエス様のメッセージを聞いている人々には2種類の人がいた。群衆と弟子という2種類の人。そして、その群衆と弟子との間には、一つの点で非常に大きな違いがあった。イエス様はその違いについて、この「種まき」の譬え話の後に、弟子たちが「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」(Ⅴ10)とイエス様に対して訊いた質問に対する答えの中で語られた。それは、「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。」(Ⅴ11)と答えられたように、群衆には知ることが許されていないが、弟子たちには許されていると言われたのである。この、「許されているか、許されていないか」というのは「していい、してはいけない」という「許可」のことではなく、「持つことが出来るか、持つことが出来ないか」という「所有の有無」のことを言っている。だからイエス様は次の節でこう言われた。

Ⅴ12:「というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。』」と。

 この「持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。』」と言われている「持っている者」、また「持たない者」の「持つ」とは、「何を持っているか、持っていないか」と言っているのだろうか?!―それがここでイエス様が譬え話を通して弟子たちに教えようとされていることであり、今日の私のメッセージの結論である。それは、「耳のある者は聞きなさい。」(Ⅴ9)と言われている「耳」のことです。しかし、その耳はただの耳ではない。それは、「天の御国の奥義という、天の御国に関する重要な霊的真理を聞いて、それを理解することが出来る耳」ということです。マタイの福音書では、それを「耳」としてしか記されていないが、同じ「種まきの譬え」が語られているマルコ4:1~12、ルカ8:4~10では、「聞く耳のある者は聞きなさい。」となっているように、その耳は「聞く耳」であるということです。

 その「聞く耳」とはどんな耳なのか?―結論から言う。それは、「聞いて素直に受け入れる耳=従順な耳」、「聞くことに集中し、もっと聞きたいと、一途に求める耳=飢え渇く耳」のこと。それをイエス様は譬え話の中で、「良い地」として語られた。「良い地」は、他の「道ばた」、「土の薄い地」、「いばらが茂っている地」とは違い、蒔かれた種をしっかりと受け取り、それを耕されて柔らかくされた土でしっかりと包み、そして土の中の空気、水分、養分のしっかり入った土の中で根を出させ、芽を出させて、そして成長させて、百倍、60倍、30倍の実を結ばせる地です。まさに、みことばに対して従順で、みことばに対して飢え渇く耳です。イエス様はこのことを、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と、弟子たちに語ったのである。

 一方、群衆に対しては譬えで語り、その譬えで語る理由をこのように言った。「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」(Ⅴ13)と。イエス様はこのことを、「こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。」(Ⅴ14a)と言われた。その預言はイザヤ6:9~10の預言のことだが、それがここでは少し表現は違うが、Ⅴ14~Ⅴ15で記されている。

Ⅴ14~Ⅴ15:「『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』」

 これを読んだだけでも分かるように、イザヤが預言活動している頃のユダヤの人々は、神の言葉に対して従順でなく、頑なであった。彼らは何度預言者を送っても、その頑な心から離れることなく、偶像礼拝を続けた。そのために、彼らはアッシリヤによって滅ぼされ、またバビロンに捕囚にあったのである。イザヤはそのことを預言したわけだが、それと同じように、イエス様は、今日の多くの人々もそうであると言われたのである。事実、イエス様がどんなに天の御国の奥義を語り、天の御国の有様を力強いみわざをもって現わしても、人々は悔い改めようともせず、神に反抗的な生活を続けていた。イエス様はその時のことを次のように記している。

マタイ11:20~24:「それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。『ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。』」

 コラジンもベッサイダもカペナウムも、イエス様のガリラヤ地方における伝道活動の中心地だった。そこではここで語られているように、数多くの力あるわざを行なって、イエス様がやがて来られるメシヤであることを示したけれども、彼らは信じることがなかった。まさにイザヤの預言の通りだった。しかし、「しかし」(Ⅴ16)とイエス様は弟子たちに対して言われた。何を言われたのか?

Ⅴ16~Ⅴ17:「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。」と。

 弟子たちはイエス様に選ばれ、そして寝食を共にしてイエス様から教えられていた。見て、聞いて教えられていた。恵まれた存在であった。それも、彼らの目の前には、旧約の預言者たちや義人たちが求めていたメシヤであるイエス・キリストがいて、その方から直接教えられ、数多くのしるし、不思議を見せられているのだから、だから「あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。」と言われたのである。

 日本には数多くの伝統的なわざがある。武道、茶道、華道、料理の世界、芸能、芸術、職人さんの世界まで数多くあるが、昔はすべてそれらのものは、師匠から手取り足取り教えられるというよりも、盗んで覚えろ、見て覚えろという世界であった。しかし、イエス様と弟子との関係は、イエス様がそばにいて、手取り足取りであるかのように教えられているのだから、「あなたがたは幸いです。」と言われたのである。そして、「ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。」(Ⅴ18)、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われたのである。

【結論】

 私たちも今日、この時の弟子たちのようにイエス様によって恵みを受けている。この時の弟子たちのように、直接イエス様と顔と顔を合わせることがなくても、御霊によって、私たちは祈りを通し、またみことばを通してイエス様の語るみことばに触れ、またみわざに預かっている。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです。」(へブル13:8)だからです。そして、イエス・キリストは「求めなさい。(求め続けなさい。)そうすれば与えられます。捜しなさい。(捜し続けなさい。)そうすれば見つかります。たたきなさい。(たたき続けなさい。)そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(マタイ7:7~11)と言われる。

 「良いもの」の「良い」とは、(ギ)「アガソス」=「本質的に良い」、「絶対的に良い」、「無条件で良い」というものです。神様は、求める者にそれを恵みとして下さる。だから私たちは、「良い地」のように、「聞く耳=従順で、求める、飢え渇く耳」を持って求めよう。もう十分だから、もう分かっているからと言って聞くことを止めてしまうことのなく、聞く耳を持ってイエス様に聞こう。あのベタニヤのマリヤのように。

ルカ10:38~42:「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。』」

 私たちもマリヤのように、「聞く耳=従順で、求めて飢え渇く耳」をもって聞こう。

―祈り―

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