2020年11月22日(日) 主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書箇所】

ネヘミヤ7:72b~8:12

​【タイトル】

ネヘミヤ記(14)「神との出会いによる礼拝、生活」

【本論】

ネヘミヤ7:72b~8:1:「イスラエル人は自分たちの町々にいたが、第七の月が近づくと、民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、【主】がイスラエルに命じたモーセの

律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。」

 エズラという名前はネヘミヤ記ではここで初めて出て来る。エズラはエズラ記で学んだように、BC539年にクロス王の命令によって最初にエルサレムに帰還した人々による神殿再建(BC520年)の後、その人々に祭司また学者として律法を教えるためにBC458年にエルサレムに帰還した人。その後のことはエズラ記7章~10章に記されているが、ここネヘミヤ記での城壁再建工事が完了したBC445年までの間のことは不明である。ただ、ここで「モーセの律法の書を持って来るように学者エズラに願った。」とあるので、そのままエルサレムに留まっていたと考えることが自然だろう。そして、「そこで、第七の月の一日目に祭司エズラは、男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持って来て、水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。」(Ⅴ2~Ⅴ3)とあるように、「第七の月の一日目」(ロシュ・ハシュナーと呼ばれ、新年の始まりの日で、角笛を吹いて一年を振り返り、悔い改めて新年を祝う日)に、「夜明けから真昼まで」、つまり朝から昼まで、「すべて聞いて理解できる人たち」や「男や女で理解できる人たち」に律法を聞かせた。「すべて聞いて理解できる人たち」や「男や女で理解できる人たち」とは、当時のユダヤの人たちは、バビロン捕囚以降、このメソポタミア地帯一体で使われているアラム語を話すようになっていたので、ヘブル語で書かれた律法を聞いても理解できない人たちもいた。そういうわけで、「すべて聞いて理解できる人たち」、「男や女で理解できる人たち」に律法を聞かせたのである。

Ⅴ4~Ⅴ8:「学者エズラは、このために作られた木の台の上に立った。彼のそばには、右手にマティテヤ、シェマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤ、マアセヤが立ち、左手にペダヤ、ミシャエル、マルキヤ、ハシュム、ハシュバダナ、ゼカリヤ、メシュラムが立った。エズラはすべての民の面前で、その書を開いた。彼はすべての民よりも高い所にいたからである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。エズラが大いなる神、【主】をほめたたえると、民はみな、手を上げながら、「アーメン、アーメン」と答えてひざまずき、地にひれ伏して【主】を礼拝した。ヨシュア、バニ、シェレベヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、エホザバデ、ハナン、ペラヤなどレビ人たちは、民に律法を解き明かした。その間、民はそこに立っていた。彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。」

 エズラは、彼の右手に6人、左手に7人の人を置いた。何のためか?恐らく、「夜明けから真昼まで」とあったように、長時間、律法の書を読むため、交代で律法を読む人を置いたのだろう。そして、他にも13人のレビ人を用意し、読んだ律法の書を解き明かした。ここに、「夜明けから真昼まで」という時間は別にして、今日の礼拝にも通じる礼拝の原型がある。それは、・「聖書朗読」:Ⅴ3:「…、これを朗読した。」、・「解き明かし」=メッセージ:Ⅴ7:「民に律法を解き明かした。」、・「賛美・祈り」:Ⅴ6:「エズラが大いなる神、【主】をほめたたえると」、そして・「応答」:Ⅴ6:「民はみな、手を上げながら、『アーメン、アーメン。』と答えてひざまずき、地にひれ伏して【主】を礼拝した。」

それと共に、ここには礼拝に関して、もう一つ重要なことが教えらている。それは、今日のメッセージのポイントでもあるが、「神との出会いを体験する礼拝、生活」ということである。

 人々は律法の解き明かしにより、そこに何が書いてあるかを理解した。(Ⅴ8:「民は読まれたことを理解した。」そのために彼らは泣いたとある。しかしその時、「総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全部に向かって言った。『きょうは、あなたがたの神、【主】のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。』民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。」(Ⅴ9)と言った。彼らは どうして泣いたのか?―それは、律法が解き明かされ、その言葉に心刺されて泣いたのである。モーセの律法というのは、「神という方はどういうお方であり、そして、神の民とされた民はどのように生きなければならないか」が教えられている実際的なマニュアルのようなもの。そして、律法に従って生きれば祝福され、従わなければ呪われるということが教えられている書物です。

だから彼らはそれを聞いて、「自分たちは、いかに律法通りに生きて来なかったか!」と罪を嘆いて、泣いたのである。それは悔いの涙であった。律法には罪を認めさせる力がある。

ローマ3:20b:「律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」

 彼らはそのために泣いた。しかし、ネヘミヤとエズラ、そして民に律法を解き明かしたレビ人たちはそんな彼らに対して、Ⅴ9:「きょうは、あなたがたの神、【主】のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」と言われた。それだけではなく、「さらに、ネヘミヤは彼らに言った。『行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を【主】が喜ばれるからだ。(主を喜ぶことは、あなたがたの力であるから。)』」(Ⅴ10)

※これは一体どういうことか?――人は、自分に罪があると分かれば悲しんで悔いる。それは、私たちがクリスチャンになっても体験することです。しかしネヘミヤやエズラ、そして解き明かしをしたレビ人たちは、そうであってはならない。むしろ、まるで祝会、宴会であるかのように、「上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲み、何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやり、この日を喜べ」と言われたのである。何故なら、「きょうは、私たちの主のために聖別された日、特別な日、あなたがたの力を【主】が喜ばれる。=主を喜ぶことは、あなたがたの力だから」と言った。そして、「こうして、民はみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。」(Ⅴ12)とある。

※一体人々に何が起きたのだろう?―それは、「彼らが教えられたことを理解したからである。」律法が読まれ、罪に気付いて悲しんだだけでなく、本当に教えられたこと、律法に書かれていることを理解したからです。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」(Ⅱコリント7:10)とある通り、彼らは自分たちの罪を認めただけでなく、それを心から悔い改めて、罪の赦しを体験したのである。律法とは神の言葉であり、神の言葉はキリスト(ヨハネ1:1、14)。彼らは、律法の解き明かしの中で、神の言葉であるキリストに出会ったのである。人はどんな人でも生ける神に出会えば変えられる。罪の中に生きる人であっても、神の言葉によって神がどういう方かを知り、そのお方に出会えば必ず変えられる。それは今日の、私たちにとってのペンテコステ体験です。礼拝には、このようにペンテコステ体験(生ける神との出会いによる悔い改めと礼拝)が必要なのである。

使徒2:37~40:「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。』と言った。そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。』ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、『この曲がった時代から救われなさい。』と言って彼らに勧めた。」

 そしてその後、彼らはどうなったのか?―教会が誕生した。そしてその教会の姿はとは?

使徒2:42~47:「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」

 生けるまことの神であるキリストに出会い、罪赦された人々である教会は、このようになる。

【結論】

 ネヘミヤ達も、律法=神の言葉を本当に理解し、律法の中で生ける神の言葉であるキリストに出会い、喜ぶ者へ変えられたのである。礼拝は宗教的な行事ではない。生ける神の言葉であるキリスト、神御自身に出会った者としての喜びから来るものです。これが神を信じる者の、救われた者の、私たちの教会生活、礼拝生活なのです。

☆あなたは、神に出会ってるだろうか?―今日、ここにも神はおられる。主に近づき、主を求めよう!

―祈り―

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