2020年11月8日(日) 主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】


ルカ18:15~17:

【タイトル】

「神の国は子どものような者たちのもの」

【序論】

 ある時、イエス様にさわっていただこうとして人々が自分の子どもたちをイエス様のところに連れて来た。ここでは「幼子たち」となっているが、原語のギリシャ聖書では「ブレフォス」となっていて、生まれたばかりの乳児を指す。英語聖書では「Babies, Infants」と訳されている。そのような子供たちがイエス様のところに連れて来られた。その時、弟子たちがそれを叱ったので、イエス様は幼子たちを呼び寄せて、Ⅴ16:「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」と言われ、そして、止めようとした弟子も含めて人々に、Ⅴ17:「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」と言われた。

 このことから、この個所のテーマは先ほど子供たちに祝福の祈りをしたが、そのことが中心的なことではなく、Ⅴ17「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」と、弟子たちに、そして人々に、そしてこれを読んでいる今日の私たちに、そのことを教えるためだということである。しかも「まことに、あなたがたに告げます。」という言葉が使われているように、それは重要なメッセージだということです。では、どのように重要なのか、今日はそのことをご一緒に考えて行こう。

【本論】

 イエス様は私たちに、Ⅴ17:「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこ(神の国)に、入ることはできません。」と言われた。それも、「乳児のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこ(神の国)に入ることは出来ない。」と言われたのです。これは、私たちが神の国に入るためには、つまり救われるためには、先ず信仰が必要であることを教えている。

ガラテヤ2:16:「しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」

 とある通り。そして、その信仰がどういう信仰であるのか、どのような特徴を持った信仰であるのかということが今日の個所で教えられている。―それは、「子どものように」である。原語の通りに言うならば、「乳児のように」、「赤ちゃんのように」です。

 では、「赤ちゃんのような信仰」、「乳幼児のような信仰」とはどういう信仰だろうか?―そのためには、「赤ちゃん」、「乳児」はどういう特徴を持っているかということを知らなければならない。皆さんはどういうものだと思うか?―ここでは一つの特徴だけを上げたい。それが今日のメッセージのポイントでもあるが。それは、「赤ちゃんは、乳児は決して諦めない強い欲求を持っているけれども、それが満たされると、もうそれ以上は求めようとはせず、満足し、ハッピーになる。」ということです。それは、お腹を空かした赤ちゃんにミルクをあげることで、また、おむつを汚した赤ちゃんが新しいおむつを替えられたことで分かる。イエス様はそのような信仰をもって神の国を受け入れなさい、信じなさいと言うのです。つまり、「求めなさい。求め続けなさい。どんなことがあっても諦めずに求め続けていなさい。」という、熱心な、飢え渇く信仰、求め続ける信仰のこと。しかし、一旦要求が満たされたのであれば、あとは神様に信頼して、すべてを委ねなさい。神にはどんなことでも出来るのだからという、神への信頼と、満たされた心を伴う信仰を持てということのである。

 私たちは聖書を読むとき、決して文脈を無視して読むことは出来ない。文脈というのは、その前後を含めて、そこで神様が何を語ろうかとしていることです。神様は聖書の中で、ある個所では一貫したテーマで、前後が矛盾することもなく、あることを語られる。それが文脈という中にある。このⅤ15~Ⅴ17の前後では、先ず;

①「求めなさい。どんなことがあっても諦めずに求め続けていなさい。」という飢え渇く信仰、求める信仰が、神の国に入るためには重要であることが語られている。それが、Ⅴ1~Ⅴ8の個所の「不正な裁判官であっても、その人が裁判官である限り、その権威があるので、その裁判官に、何としても相手を裁き、自分を守ってもらうようにと訴えて、それをやってもらったひとりのやもめ女」のたとえであり、また、Ⅴ9~Ⅴ14の、「目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて、『神様。こんな罪人の私をあわれんでください。』と、神様に憐れみを求めた取税人」のたとえなのです。また、

②「一旦満たされたのであれば、あとは満足して、神様に信頼し、すべてを神様に委ねなさいという委ね切る信仰」については、この後のⅤ18~Ⅴ30の「永遠のいのちを自分のものとするためには、つまり神の国に入るためにはどんなことをすればいいか」(Ⅴ18)ということをイエス様に訊ねた裕福な一人の役人の話にそれを見ることが出来る。そして、その役人に対する答えを聞いて、イエス様に「私たちは自分の家を捨てて従って来ました。だから、私たちは永遠のいのちを自分のものにすることが出来ますよね。」と訊ねたような弟子たちについての話の中に、それを見ることが出来る。だからイエス様は彼らに、Ⅴ27:「『人には出来ないことが、神には出来るのです。』」と言われた。だから、神を全く信頼しなさい。委ねなさいと言われたのである。

 どちらも、「神の国に入るのに、人の善行とか、あたかも信仰があるかのように見せるための、人の行ないなど必要ではない。ただ神様を信じ切る、委ね切る、そして満たされ続けている、平安に満ちた信仰が大切である。」ということを教えている。いろいろな困難、欠乏、貧しさ、苦難を通って来たパウロはそのことを次のように語っている。

ピリピ4:11~13:「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」

Ⅰテモテ6:6:「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。」

 そして、飢え渇く信仰、求め続ける信仰の大切さについては、イエス様はこう言っている。

マタイ5:3、6:「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」、「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」

【結論】

 神様は私たちを愛して、御子を送って下さった。それは、この世で私たちが罪から離れ、平安で満たされた人生を送り、死んだ後には裁かれることなく、イエス様のいらっしゃる神の国に入ることが出来るためである。そのために神様は御子イエス様を遣わして下さったのです。

ローマ8:32:「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

 ですから、熱心に祝福を求めるためにイエス様のところに行こう。そして、満たされて主に賛美と感謝を捧げて行こう。

―祈り―

これまでのメッセージ

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