2020年12月13日(日) 主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書箇所】

マタイ2:1~12

【タイトル】

「キリストにあって変えられる新しい人生」

【序論】

 人生には3つの坂があると言われている。「上り坂」、「下り坂」、「まさか」という坂。それに加え、私は4つ目の坂があると思う。それは「境(さかい)目」という「さか」です。いわゆる人生の境目、転機、ターニング・ポイントのことです。そして今日読んだ聖書個所に、その境目を経験した人物が出て来る。それは、東方から星に導かれてエルサレムまで来、そこから再び星に先導されてベツレヘムに来て、生まれたイエス様を礼拝した三人の博士です。この三人の博士の、いつ、どこが彼らの転機だったのだろうか?―それは、Ⅴ12:「それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。」とあるように、「別の道」を通って、自分の国に帰って行った時です。

 人生には今まで歩んで来た道や生き方とは違う道、生き方を選んで通って行く時がある。人生の転機と呼ばれる時です。しかし、人にはそれがいつどこでやって来るのかは分からない。この時、この三人の博士も夢でヘロデのところに戻るなという戒め、警告としての戒めを受けたが、もしこの戒めがなければヘロデ王のところに戻り、つまり、今まで来た道を通ってヘロデ王にイエス様のことを報告したことだろう。何故なら、彼らはそのように言われていたからである。

Ⅴ8:「…。『行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私もいって拝むから。』」と。

 では何が決定的にヘロデ王の言い付けに背いてまでも、彼らの計画を変えさせて、別の道を通らせたのだろう?―それが今日、私が皆さんに伝えたいメッセージの中心的なテーマであり、結論でもある「イエス・キリスト」です。―人はイエス・キリストに出会い、イエス・キリストを自分の救い主として礼拝するとき、人は新しく変えられ、今までとは違った道を歩むのです。

Ⅱコリント5:17:「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなりました。」とある通りです。

 この時この三人の博士も、そのような形でまだ生まれて間もないイエス・キリストを礼拝した。黄金、乳香、没薬という、当時メソポタミアで神を礼拝するために捧げられていた高価な捧げ物を捧げたのである。それは、彼らがイエス・キリストを救い主、王として信じ、受け入れたことのしるしです。その結果、彼らは新しく変えられ、もう彼らにとっては王でもないヘロデ王に会う必要もなかったのです。

 でもそうすると、先ほど私は、Ⅴ12:「それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。」だから、彼らは別の道を通って行ったのだと言ったが、それは直接的であった。事実、彼らはここまで来るのに星に導かれ、夢で戒めを受けて別の道を通って自分の国に帰って行ったとある。それは不思議なことです。勿論、彼らは東方の博士として星占いや夢を信じていたということもあっただろう。しかし、彼らは不思議な導きで救い主に出会い、そして別の道を通って帰って行く新しい人に造り変えられたのです。しかし、これは私たちにとっても同じではないだろうか?―私たちの救い、イエス・キリストとの出会い、信仰が与えられたということは、それまでの私たちの人生の中の計画でも予定でも無かった。ただはっきり分かるのは、不思議なように導かれて、結果的に今があるということです。すべては不思議な神様の導きがあったからです。その導きは、私の場合は「浅草へ行こう」という私の心の導きがあったから。ある人にとっては、人の言葉であったかもしれない、この三人の博士たちの時のように星であったのかもしれない。或いは夢や幻であったのかもしれない。神様は不思議な神(士師記13:18:「…。わたしの名は不思議という。」)です。だから、私たちは神様のことを私たちの理性の枠に納めることは出来ないのです。私たちの方で、信仰によって私たちの思いを神様に合わせなければならないのです。このようにして私たちは皆ひとりひとり、イエス・キリストに出会い、信じて救われたのです。これは御霊による働きです。

ヨハネ3:7~8:「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」また、

Ⅰコリント2:14:「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」

 このようにして救われた私たちなので、もはや生まれながらの人間としてではなく、救われる以前の生き方によって生きるのでもなく、御霊によって新しく変えられた者として生きて行こう。その御霊によって新しく変えられて生きる者とはどういう者だろう。それは、「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)にあるように、

新しくされ続けて、生きる者です:「古いものは過ぎ去り」は、(ギ)「パレールセン」=不定過去で、一度限りの過去のこと。「すべてが新しくなりました。」は、(ギ)「ゲゴネン」=完了形で、過ぎ去った過去の事でなく、ずっと継続している新しさです。聖霊様は私たちの中に住まい、私たちを絶えず新しい者として下さっている。私たちの霊がいつも聖霊様と同じように、新しくされ続けていて、私たちが古くならないようにして下さっている。だから私たちも、私たちの生き方や考え方をいつも新しいものとして行こう。次の新しい皮袋のように。

マルコ2:18~22:「ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。『ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。』イエスは彼らに言われた。『花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。』」

 「花婿の断食」=イエス様の十字架の時は、信じる者が新しくされる転機の時である。だから、信じた私たちは新しいぶどう酒とされた者。だから新しい皮袋=新しい生き方をしなければならないのです。

過去に生きないで、今に、将来に生きる者です:依存症家族会に1年前に来たある婦人は、薬物に依存していた。そしていつも過去の家族の問題をその言い訳にしていた。しかし、過去という荷物を下すことを勧めてから、この方は変えられた。皆さんの中で、過去のことを背負って生きている人はいませんか?過去のことは下ろして行こう。過去のことは変えることもどうすることも出来ない。しかし、今と将来は、どの道を選択するかによって変えることが出来るのです。

【結論】

 今年はまだ終わっていないが、振り返るといろいろなことがあった。皆さんの中に、来年こそ新しく変わりたい。変えられたいと願っているという人がいるだろう。そうであるならば、あなたはそのように導かれている。だから、イエス・キリストを王として迎え、イエス・キリスト以外のものや人、また物事や出来事をあなたを支配する王とするのを止めよう。この方だけをあなたの王として礼拝しよう。あなたにとって必要なのはイエス・キリストだけです。教会も必ず変えられます。

―祈り―


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