【聖書箇所】
Ⅱペテロ3:10~18
【タイトル】
「聖い生き方をする敬虔な人(14)」
【序論】
聖書は「主の日」、「神の日」と呼ばれる主の再臨に伴う裁きの日が来ると、「天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」(Ⅴ10b)と
言う。いつかは分からないが、今私たちがいるこの世界は火で焼き尽くされ、消えて無くなってしまうと言う。しかし、その代わりに神様はその後に、焼き尽くされることのない新しい天と新しい地を、私たちのために約束して下さっているというのです。
Ⅴ12~Ⅴ13:「そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」
だから、私たちはこの「新しい天と新しい地」を待ち望もう!これが今日のメッセージの結論です。この結論に当たり、ペテロは3つの重要なメッセージを語っている。
【本論】
(1)平安をもって御前に出られるように、励みなさい。
Ⅴ14:「そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」
「平安をもって御前に出られるように」とはどういうことだろう?―私たちはイエス様の恵みにより罪赦されているのだから、へブル書の記者が、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:15~16)と言っているように、私たちは大胆に神の御前に出ることが出来るのです。
では、「励みなさい。」とはどういうことか?―「励みなさい」とは、原語のギリシャ語では「スプーダイオス」という言葉で、「熱心でいなさい、熱くいなさい」ということ。だから、「そうなるように努力する」というよりも、「そうなった」のだから、「そうであることに熱心でいなさい。」、「熱くそうあり続けたい」ということである。
また、その前の「しみも傷もない者として」という言葉にも注目しなければならない。―イエス・キリストは私たちの罪の贖いのために、神様が唯一、「良し」と認めて下さる「傷やしみのない完全な贖いの子羊」として十字架に架かって下さった。もしそうでなければ、私たちは罪を犯したアダムの子孫として、神様の御前で裁かれ、平安をもって御前に出ることなど出来ない。しかし、イエス様がそのことを成し遂げて下さり、また、それだけではなく、今もイエス様は私たちの救いのために、休むことなく、眠ることなくとりなしていて下さるので、先ほどのヘブル4:15~16のみことばにあったように、私たちは大胆に御前に出ることが出来るのです。平安をもって神の御前に出ることが出来るのです。
ヘブル7:24~25:「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(へブル13:8)また、「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(詩121:4)と言われる神であるイエス様は、私たちのために眠ることなく、微睡むこともなく、ずーっととりなしし続けていてくださるのです。だから、私たちはいつでも、平安をもって御前に出ることができるのです。このことをしっかりと覚えて、感謝しよう!
(2)主の忍耐は救いであると考えなさい。
Ⅴ15:「また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。」
ペテロはこの手紙の前の個所でこう言っている。
Ⅴ3~Ⅴ9:「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
神様は、「愛する人たち」(Ⅴ8)と言って、私たちに対して重要なことを語っている。それは、神様の時の基準とこの世の時の基準とは違うということ。そして、それはただ、「時の基準のこと」だけではなく、「何を第一にして生きて行くのか」という価値観、世界観、信仰の世界のことでもあって、もし私たちが神よりも自分の思い、自分の欲望を優先させて生きて行くなら、「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」(Ⅴ7)とあるように、私たちは不敬虔な者として、終わりには、この天地と共に滅んでしまうのです。
※だから、「私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。」と言うのです。それは、私たちが滅びることがないようにということだけではなく、まだ救われていない人たちが一人でも滅びることがないようにと、神様御自身が求めておられるということでもあるからです。
Ⅴ9:「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
だから、主の忍耐は救いであると考えよう。
(3)自分の堅実さを失わないようにしなさい。
Ⅴ17:「愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。」
「そういうわけですから」というのは、Ⅴ16にあるように、聖書の言葉を曲解する人たちが現れて、滅びに至らせるようなことが起こるから、「そのことを予め知っておいて、よく気を付け、そう言った無節操な人たちの惑わしに誘い込まれ、自分自身の「堅実さ」(ギリシャ語:ステリグモス:「確信」、「堅固さ」)を失ってはならないと言うのです。それは、「何に対する確信」、「何に対する堅固さ」なのだろうか?―それは、「神の言葉に対する確信、堅固さ」、「イエス様に対する確信、堅固さ」です。「神の言葉にしっかりとつながり、神の言葉にしっかりと根差し、ぶどうの木と枝のように、イエス様にしっかりとつながって、決してイエス様から離れないという堅固さ」を守りなさいと言うことです。
この終わりの時代には、人類が造られ、アダムが罪を犯して以来、サタンがいつも働いていて、人々を滅びに至らせている。そのために、神様が人類の歴史に介入され、ノアの時代にも、アブラハムの時代にも、モーセの時代にも、またダビデの時代にも、またバビロン捕囚の時代にも、いつも神から遣わされた預言者が現れて、人々を神の道に導こうとされていた。しかし同時に、それに対してサタンも、人々の心の中に働き、また偽預言者を通して働いて、人々を滅びに至らせようとしていた。それは今日も変わらない。
今、NARの問題があるが、これらのようなことは歴史を通じて現れて来たし、またこれからも起こるだろう。だから一番大切なのは、イエス様から目を離さないこと、イエス様から離れないことです。何故なら、キリストだけが最後に残るからです。この世界はさまざまなことで揺り動かされるが、キリストだけが最後に残るのです。私たちは、この方に留まり続けなければならない。
11月15日に、「聞く耳で聞く者は幸いです。」というメッセージを語った時、「聞く耳」というのはどういう耳であるのかということについて語った。それは頑なな心ではなく、柔らかい心を持って神の言葉を聞く耳だと言った。言い換えるなら、神に対して従順な心を持っている者、従う者であるということだった。その時に引用したのが、イザヤ6:9からのみことばだった。そこに、神の言葉に対する確信、堅固さを持っている者、言い換えるなら、今年のテーマである「聖い生き方をする敬虔な者」とはどういう者であるのかが語られている。
イザヤ6:9~13:「すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』6:10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」6:11 私が「主よ、いつまでですか」と言うと、主は仰せられた。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、6:12 【主】が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。 6:13 そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」」
この「聖なるすえ、切り株」こそ、たとえ最後の裁きで焼き尽きされるようなことがあっても、決して焼き尽くされることなく残る者となり、新天新地に入ることが出来る者なのである。
【結論】
※だから、イエス・キリストだけに目を留めよう!そして栄光を帰そう。そして、そのような者として下さった神様に、すべての感謝をささげよう!
Ⅴ18:「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。」
―祈り―