2020年12月6日(日) 主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書箇所】

Ⅱペテロ3:10~11、ルカ1:67~75

【タイトル】

聖い生き方をする敬虔な人(13)「敬虔は神からの贈り物」

【序論】

 今日は、今年の年間テーマの最終回。神様は私たち一人一人に「聖い生き方をする敬虔な人」として歩むように望んでいるということを今年1年語って来た。それは、神様によって聖められた者として、救われた

者として、その聖さの中を、救いの中を神を第一にして歩むということだった。今日もそういうテーマでメッセージを取り次ぎたい。聖書箇所は、ルカ1:67~75。

【本論】

ルカ1:67~75:「さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。」

 この個所と「敬虔」とどういう関係があるか?―それは、この個所の最後の節、74~75節を新改訳2017年版で読むと、「主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる。私たちのすべての日々において、主の御前で、敬虔に、正しく。」となっていて、新改訳第2~3版の「きよく」が「敬虔」という言葉で表現されていることが分かる。だから、それを第2~3版に入れ替えて読むなら、ここは「われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、敬虔に、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。」となるからです。

 この言葉は、祭司ザカリヤが務めとして朝夕の香を焚く奉仕に当たっている時に御使いが現れ、息子のヨハネの誕生を告げた時、それを信じなかったためにヨハネが実際に生まれる時まで口が聞けなかったが、御使いの預言通りに子供が生まれてヨハネと命名した時に口が開き、聖霊に満たされて、神をほめたたえて言ったという預言の中の言葉である。この預言は、イエス・キリストの誕生の預言と、息子ヨハネに対する預言の二つに分かれているが、今日読んだ個所がイエス・キリストの誕生についての預言の個所のところで、ザカリヤは祭司であり、職業的預言者ではないが、この時、「さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。」(Ⅴ67)とあるように、聖霊に満たされて預言したのである。

 この預言というのは、神から言葉を預けられて、神がどのようなことをなさったか、或いはなさるかという証しやメッセージのような言葉である。そういう意味で、私たちは皆が証し、預言することが出来るのです。何故なら、私たちは皆、聖霊を受けてキリストの証人になっているからです。パウロがコリントの教会に対し、「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」(Ⅰコリント14:1)と命じているのもそのためです。それも、この命令は例外なくすべての人に対するものであることが、次のみことばで分かる。

Ⅰコリント14:5a:「私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが(みな)預言することを望みます。」

 だから、預言することも求めよう!それにより、「…、預言する者は教会の徳を高めます。」(Ⅴ4)とあるからです。そのためには、みことばを通してイエス様を知り、祈りを通して神様が語るみことばをいただこう。

 「敬虔」に戻る。そうしてザカリヤは、救い主イエス・キリストの誕生の預言をした。

Ⅴ68~Ⅴ69:「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。」

 「救いの角」とは救い主イエスキリストのこと。神様は私たちのために、救い主イエスキリストを「しもべダビデの家に立てられた。」という。それは、ダビデの子孫として救い主が生まれるという預言の成就のこと。その預言の代表的なものとしては、「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(Ⅱサムエル7:12~13)である。

 これは、預言者ナタンがダビデに語ったイエスキリスト誕生の預言である。そして、イエスキリストはダビデの子孫として生まれた。それが、「古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。」(Ⅴ70)ということである。

Ⅴ71:「この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。」

 われらの敵とは誰だろう?―私たちの祖先であるアダムに罪を犯させ、私たちを滅びに至らせようと今も働いているサタンと悪霊たちです。そして、罪の結果受けなければならい最後の敵と言われている死です。しかし神様は、私たちを御子イエスキリストの十字架と復活のみわざ、その贖いにより、サタンと死に対して勝利を得る者にしてくださったのです。

Ⅰコリント15:55~57:「『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」そして、

Ⅴ72~75:「主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、敬虔に、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。」

 「許される。」(Ⅴ75)というのは、新改訳2017年版でなっていたように、「してくださる。」ということで、原語では「ディドーミ」(与える、賜わるという意味)となっていて、だから、敬虔というのは神からの贈り物なのである。神様は、アブラハムと結ばれたアブラハム契約「【主】はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』」(創世12:1~3)を覚えていて下さり、私たちに、私たちの生涯のすべての日に、主の御前で、正しく、恐れることなく、敬虔に生きるということを贈り物として与えて下さったのです。そのことを、ゼカリヤは、聖霊に満たされ、預言を通して、「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。」(Ⅴ68~Ⅴ69)と言って賛美した。

 それもこれも、みな主イエスキリストの贖いのゆえである。神様は私たちを救い、永遠のいのちという贈り物だけではなく、私たちの生涯を、神の子どもとして、聖なる者として神の御前に正しく、恐れなく、敬虔に生きる者にして下さったのです。何という恵みだろう!ハレルヤ!この感謝を、パウロは次にように言い表した。

Ⅱコリント9:15:「ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。」

【結論】

 年間聖句にあるように、世と世にあるものは皆崩れ落ち、焼き尽くされて何も残らない。しかし、変わらずに残るものは信仰と希望と愛であり、だから主に対してそのようなものを持って生きる時、私たちは神の子として、神の御前で、敬虔に生きることが出来るのです。イエス様の十字架の贖いとよみがえりを、またそれによって与えられた敬虔という贈り物を感謝して歩んで行こう。

―祈り―


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