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これまでのメッセージ

2020年元旦礼拝メッセージ

January 1, 2020

【聖書個所】

 Ⅱペテロ3:11  :「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるもの

だとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」

 

【タイトル】

聖い生き方をする敬虔な人(1)

 

【本論】

 今年、このⅡペテロ3:11が年間聖句として、また、「聖い生き方をする敬虔な人」がテーマとして与えられた。このテーマは、「さあ、〇〇しよう!」というようなワクワクするものではないかもしれないが、実はかなりチャレンジに満ちた、心躍るテーマであり、またみことばでもある。何故ならば、次のみことばに目を留めてみよう。

 

Ⅱペテロ3:1~2:「愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。」

 

 ここには、「呼びさまさせる」、「奮い立たせる」、「思い起こさせる」という、心に働きかける言葉が使われている。このことから分かるように、ペテロはこの手紙により、読者に向けて、彼らが以前にペテロやパウロの手紙を通し、また預言者や教師たちによって教えられていた主の再臨や終わりの時代のことについて、もう一度思い起こさせようとしているが、その中で語られている「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」という言葉は、だから、それは「どんなにそうでなければならないか」というペテロの熱い思いが伝わって来る言葉なのである。

 

 今日において、この「聖い生き方をする敬虔な人でなければならない。」というテーマは非常に重要なものである。何故なら、今日が終わりの時代の特徴である不敬虔なことがらが数多く起こる時代だからです。しかし、それはある意味では驚くことではない。聖書でははっきりと、終わりの時代になると不敬虔な者が現れると書かれているからです。

 

Ⅱペテロ3:3~7:「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」

 

 「不敬虔な者ども」とは、キリストの再臨を信じている彼らを、そして私たちをあざけり、そして、再臨などないのだからと言って、「自分たちの欲望に従って生活する者たち」のことです。

 

 ここで、「敬虔」ということについて確認しておきたい。「敬虔」とは、「信心深い、神を敬う心」を言う。だから、「敬虔な人」というのは、「神を敬って、神を神として生きる人」ということです。「神のみこころと一つになって生きる人」と言ってもいい。それはまた、「聖い人」ということでもある。「聖い」というのは、神のものとして聖別されていることを言うので、「聖い生き方をする敬虔な人」とは、完全に神様の者として、神様に従い、神を第一にして生きる人のことを言う。だから、これは決して何でもないことではなく、チャレンジに満ちた、心躍ることである。

 

 昨年のラグビーワールドカップでは日本選手はベスト8に輝いた。それは、前回大会で彼らはベスト12に入ったことにより、今回の大会にシード権を得て参加をすることが出来たため、つまり選ばれて出場することが出来たので、彼らはそれを誇りにして試合に臨み、全力を尽くした結果で得たものだった。今年はオリンピックがあるが、やはりオリンピック選手たちも選ばれた者としてベストを尽くすだろう。それは、彼らは選ばれた者だからです。

 

※私たちも同じである。私たちはイエス様の贖いにより「選ばれた者」、「聖なる者」とされた。

 

Ⅰペテロ2:9a:「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」

だから、選ばれたことに、聖められたことにに感動し、そのことを誇りに思って「聖い生き方をする聖なる者」として生きて行きたいと思う。

 

 今日のみことばを注意して見てほしい。

 

Ⅱペテロ3:11:「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」

 

 聖書は「敬虔な人になれ」とは言っていない。もう既にイエス様の贖いにより敬虔な者になったのだから、「敬虔な人でなければならない」と言うのです。それはちょうど、「敬虔な人」という上着を着ているようなものです。聖書は、私たちは何があってもその上着を脱いではいけない、他のどんな上着とも交換してもいけないと言うのです。

 

 ローマ6章は、5章の「罪の増し加わるところには、恵みも増し加わる。」(Ⅴ20)を受けて、「では罪の中にとどまろうか」という考えに対し、絶対にそんなことはしてはならないという議論が展開されているところです。言い換えるなら、「私たちは恵みによって義とされるのだから、罪の衣を着よう。」ではなく、断固としてそんなことはしてはならないということが語られている。その結論として;

 

ローマ6:17~19:「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが(罪の衣を着ていたが)、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです(義の衣に着替えたのです)。あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが(罪の衣を着て生きていましたが)、今は(今はもう義の衣が着せられたのだから)、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい(聖い生き方を全うしなさい)。」と言う。

 

 だから、私たちは敬虔な者として、何があっても義の衣を脱いだりしてはいけない、敬虔な者でなければいけないのです。

 

引用:フランスのルイ17世の話:1789年に起きたフランス革命により、父親のルイ16世と母親のマリ・アントワネットはギロチンに遭った。当時息子のシャルル・ルイ17世王子は、革命政府により、まだ6歳という小さな子供だったのにも関わらず、この子から王の子供としての考え方、生き方を奪い取ろうと再教育が行なわれた。ありとあらゆる悪い言葉、悪い行いをさせようとされたが、ルイ17世王子は、「そんなことは自分には出来ない。自分はフランス国の王子だから」と答えたと言う。そのために、最終的には、その後劣悪な環境の中で放置されて生きることになり、10歳という年齢でこの世を去ることになった。

 

【結論】

 私たちはどうだろうか?―私たちはルイ17世王子のように、「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民」として、聖い生き方をする敬虔さを失ってはいけない、何としても保たなければならないのです。イエス様はそのために十字架で贖いをしてくれたのだから。御自身の血潮で聖めてくれたのだから。私たちの聖さ、敬虔さはイエス様のものです。ラグビーワールドカップの栄誉や誇りよりも、この世のどんな尊厳や誇りよりも、私たちの敬虔さは、何ものにもまさって優れた栄誉、尊厳、誇りです。だから「聖い生き方をする敬虔な人でなければならない」のです。

 

―祈り―

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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