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これまでのメッセージ

主日新年礼拝メッセージ:金子辰己雄師

January 5, 2020

【聖書個所】

Ⅱペテロ3:11  :「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でな

ければならないことでしょう。」

 

【タイトル】

​聖い生き方をする敬虔な人(2)

 

​【本論】

 

​ このみことばは、「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば」を前提に、「あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」と言っている。つまり、前半に基づいて、「どれほど」という強調する言葉を伴い、元旦のメッセージによる言い方によれば、「聖い生き方をする敬虔な人としての衣を決して脱いではいけない」ということが言われている。では、その「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば」ということはどういうことなのか。それは、V10に書かれていることである。

Ⅱペテロ3:10:「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」

 前回のメッセージで触れたが、不敬虔な者たちは「イエス様の再臨などあるわけがない。主の日も来るはずがない。この世界は造られた時からずっと変わることなく同じだ。」と言っているが、その彼らの言っている「主の日」は盗人のように突然やって来る。その日が来ると、「天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされ」てしまうとペテロは言うのです。ではどうして不敬虔な者たちや、今日の神を知らない人たちが、場合によってはクリスチャンでさえも、この時の彼らのように、「世界はいつまでも何も変わっていないではないか。」と思ってしまうのかと言うと、その理由を、Ⅴ8~Ⅴ9でこう述べている。

V8~Ⅴ9:「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

 理由は二つ。神の時計は私たちの時計と違うということ。また、神様にはすべての人が悔い改めて救われて欲しいという望みがあるからです。だから何も変わっていないように見えるというのです。しかし一方で、この「しかし」が重要です。

Ⅱペテロ3:10:「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、・・・。」

 神様は忍耐深く待ってはおられるが、その時が来ると、ノアの洪水の時のように(創世記6:5~6:「【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」)また、イスラエルがエジプトから救い出され、アブラハムに与えたカナンに戻って来た時のように(創世記15:16:「そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」)悪が極限に達した時に、神様は不敬虔な者を、また悪を裁かれるのです。

※今の時代もそうである。私たちは今、不敬虔さ、悪、罪が増大する生きている。それが聖書の歴史観です。確かに今は、「恵みの時、救いの日」(Ⅱコリント6:2)です。しかしそれは、「罪の増し加わるところには、恵みも満ち溢れました。」(ローマ5:20)とあるように、罪があるから、恵みの時、救いの日であり、罪がなければ恵みも救いも必要ない。しかし今なお、そしてそれらはこれから増々増し加わって来るので、恵みと憐れみ、救いがもっと必要なのです。この世界は、やがて「天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」(Ⅴ10)とあるように、悪の増大の結果滅びるのである。

 では、私たちはそのような時代をどう生きればよいのか?それが、今日の結論である。

【結論】

 それは、「見えるものによらず、見えないもの=神の言葉によって生きる」ということ。それが今日、聖い生き方をする敬虔な者として生きて行くために絶対に必要なことなのです。

 

 イエス様はかつて弟子たちにこう言われた。

マタイ24:1~13:「イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」

 結論は、「最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」(Ⅴ13)=信仰を持って耐え忍ぶことです。信仰こそ、見えないものを見て生きること。聞こえないものを聞いて生きることです。

へブル11:7~8:「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」

へブル11:1~3:「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」

 これが信仰です。そして、聖い生き方をする敬虔な人とは、このような信仰によって生きる人です。だから、私たちはこのみことばにしっかりと目を留め、告白して、この年を歩んで行こう。

Ⅱコリント4:18:「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」

―祈り―

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