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February 9, 2020

 【聖書個所】

  Ⅰテモテ4:7b~8  

 

【タイトル】

「練られた敬虔のもたらす祝福」

 

【序論】

 前回、私たちは「聖い生き方をする敬虔な者」とされたのだから、そのような者として生きて行こうということを語った。皆さんはどうだろうか?―この書簡を書いたパウロは、ピリピ1:20でこう言っている。

ピリピ1:20:「それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。」

 パウロはローマにいる時、牢の中に捕らえられていた。しかし、そのことによってある兄姉たちは却って確信をもって福音を宣べ伝えるようになり、投獄されていたパウロの励ましになった。一方では、ある兄姉たちは党派心をもって福音を宣べ伝え、投獄されているパウロを苦しませていた。しかしパウロは、どのような動機であろうとも、結果的にはキリストが宣べ伝えられているので、そのことを喜んでいると言っている。それは、どのような形であろうとも自分の身によってキリストが宣べ伝えられ、崇められているので、それをパウロは喜ぶと言う。これこそ、敬虔な者の姿です。と言っても、私たちは敬虔な者であり続けるために、パウロのように牢獄に入らなくてもいい。しかし敬虔な者であるために、しかもより敬虔な者であるためには、私たちには経験しなければならないことがある。今日は、そのことをみことばから学んで行こう。

【本論】

 パウロは、「むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」と言って、敬虔=「神のように生きること」が、アスリートが鍛錬によって肉体を鍛えて強くなるように、「敬虔」も鍛えることが出来るものであり、鍛えるならば「すべてに有益です。」とあるように、オールマイティの敬虔さ、いつでもどこでも変わることのない敬虔さを身に着けることが出来るというのです。

 この個所を、リビング・バイブルで読んでみよう。

Ⅰテモテ4:7b~8(LB):「時間と労力とを有効に使って、いつも霊的に高められるよう自分を訓練しなさい。体の訓練も大いにけっこうですが、霊の訓練はさらに大切であり、あらゆる行動の原動力になるのです。ですから、あなたは霊の訓練に励み、もっとすぐれたクリスチャンを目指しなさい。そうすることは、今の地上の生活のためだけでなく、未来の生活にも役立つからです。 」

 敬虔を鍛錬するならば、それがあらゆる行動の原動力になり、肉体の鍛錬によって得ることが出来る一時的な力以上の、永続する、遥かに価値のある益を得ることができるというのです。だからクリスチャンとしてのオリンピックというものがあるとするなら、そのオリンピックにおいて、私たちは敬虔さを訓練することにより、より敬虔な者になるということなのです。それが、敬虔が鍛錬された結果、得ることが出来る祝福です。

では、そのような祝福を得るための鍛錬はどのように行なわれるのだろうか?―それは、一夜によって優れたアスリートが生まれないように、すべてに有益な敬虔さも一夜にしては決して得ることは出来ないのである。それは、実に地味な訓練の積み重ねることによるものです。私たちの日常の小さな敬虔の積み重ねによって、大きな敬虔さが身に付いてくるのです。パウロはそのことを、弟子のテモテに対して、牧師としての敬虔さという観点から、次のように言っている。

Ⅰテモテ4:12~15:「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。」

 主に4つのこと―①年が若いからと言って、自分を軽んじてはならない。②信者の模範になれ。③みことばの教えへに専念すること。④聖霊の賜物を軽んじてはならない。―を言っているが、これを牧師としての敬虔さではなく、一般に私たち一人一人について言うならば、―①無条件に、私たちはクリスチャンになった。「聖い生き方をする敬虔な者になった」ということを軽く見てはいけない。②互いに信者の模範になろう。③みことばの教え、みことばの学び、ディボーションを大切にしよう。④聖霊の賜物を軽んじてはならない。―ということになろう。

 

 私たちは皆、働き、能力、すべてにおいて神の贈り物として無条件に与えられたのだから、決して、どんなに小さなものでも小さく見てはならない。軽んじてはならない。すべての中で、私たちは神に目を留めて歩むのです。それが「より敬虔な者として生きる」ことです。そして、そうしなければどうなるか?―不敬虔な者の例として、ダビデの場合を見てみよう。彼は、バテ・シェバとの姦淫から始まり、最後にはその夫のウリヤの作為的な殺人にまで至ってしまった。(Ⅱサムエル11章)

 その原因は、彼は自分が敬虔な者とされたことを軽んじ、敬虔さの鍛錬を疎かにし、小さな不敬虔を積み重ねることにより、終には大きな不敬虔な罪に陥いることになってしまったのである。ダビデは戦士であり、勇士だった。彼は戦士として、いつもその戦士としての敬虔の筋肉を働かせて良い成果を得ていた。そういう点で、彼はすべてにおいて有益だった。ところが、彼は王位に就いて王宮での暮らしをするようになると、安楽な生活に慣れたためか、段々と敬虔の鍛錬を忘れ、つい油断して、不敬虔の筋肉、情欲の目を働かせてしまった。そして後は、お決まりの堕落の道への一挙に堕ちて行ったのである。

※それもこれも小さなことを軽んじて、小さな敬虔の積み重ねをすることなく、不敬虔の積み重ねをしてしまった結果だった。私たちの信仰生活は、まさにそのような敬虔の鍛錬の積み重ねです。私たちは信仰生活において、いろいろな経験をする。見たり、聞いたり。その時に、私たちは、小さなことを軽んじてはいけないのです。それが不敬虔なことであっても、敬虔なことであっても。私たちは、それがどんなに小さなことであっても敬虔なことの方を選び取り、そして、その鍛錬をして、敬虔の筋肉を強くし、そして歩んで行くのです。ちょうどダビデが勇士として、いつも勝利していたように。

 そうすれば、私たちは自ずと、大きな敬虔の実を結びます。だから;

【結論】

Ⅰテモテ4:7b~8:「むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」

Ⅰテモテ4:15:「これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。」

―祈り―

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