主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師


【聖書箇所】

ヨハネ19:28

【タイトル】

十字架上の主の7つの言葉(5)「わたしは渇く。」

【本論】

 「この後」とは、ここで言うなら、Ⅴ26とV27のイエス様の十字架上の3番目の言葉、「女の方、そこに、あなたの息子がいます。」そして、「そこに、あなたの母がいます。」と言われた、その後のことを指すだろうが、時間的には、前回のマタイ27:46「エリ、エリ、レマサバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。)」と、暗闇の中で叫ばれた4番目の主の十字架上の言葉の後のことである。この言葉は、私たち罪人のすべての罪を身代わりに被り、十字架の上で裁きを受けられた罪人としてのイエス様の叫びの言葉であったということ、そして、それと同時に、そのイエス様に対する断罪により、私たちの罪の贖いが完成したことを意味する叫びの言葉でもあったと、前回のメッセージで語った。

 パウロは、このイエス様の贖いのみわざのことを次のように言っている。

Ⅱコリント5:21:「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためで

 す。」

 このみことばが表しているように、イエス様の十字架による私たちの罪の贖いは、イエス様が罪人として十字架に付けられたとき、神様は御子であるイエス様から義の衣を剥ぎ取り、そして、私たち罪人から罪の衣を剥ぎ取って、義の衣と罪の衣を交換されたということである。それが、イエス様の十字架の上における贖いの実体です。私たちはそのようにして救われたのです。だから私たちはイエス様に、神様に感謝したいと思う。この恵みを感謝したいと思う。

 しかし、このことはイエス様の方から見たらどうだろうか?―イエス様から見るならば、罪を犯していないのに断罪され、義の衣を剥ぎ取られて罪の衣を着せられたわけだから、どんなに苦しいことだっただろう。その苦しみから出て来た言葉が、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という言葉である。そして、それに続いたのが、今日の「わたしは渇く。」という言葉なのである。イエス様は、苦しみと恐れで一杯になり、そして渇かれたのである。

 では、イエス様はこの時何に渇かれたのだろうか?この時、何に渇きを覚えられたのだろうか?

このことを知るために、もう一度、先ほどのパウロの言葉に帰ってみたい。

Ⅱコリント5:21:「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためで

 す。」

 そうです!―この時イエス様は、私たちを義とするために父なる神様から剥ぎ取られた義の衣に対して渇きを覚えられたのです。人は誰でも何かを失くしたり、何かに欠乏したら、きっとそれに対して渇きを覚えるだろう!お腹が空けば、食べ物に対して飢え渇きを覚えるように、喉が渇けば、水分に対して渇きを覚えるように、人は誰でも、失くしたものに、失ったものに渇くものである。

引用:2018年のクワラルンプールでの依存症に関するセミナーで出会ったイギリスの夫妻のこと。夫人が摂食障害であった(今でも試みがある)時、治療のために食べ物から引き離されることは、冬の日の寝床から毛布を奪い取られるようなものだったと語っていたこと。

 イエス様もこの時、義の衣を剥ぎ取られて、その義に飢え渇かれたのである。その渇きはどれほどのものだっただろうか!

◎しかし、聖書は言う。

マタイ5:6:「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」

 山上の垂訓の八福の教え「幸いなるかな!…。」の中の一節。聖書は、イエス様御自身が山の上では「何と幸いなのだろう!義に飢え渇く者は!何故なら、その人は満ち足りるからです。」と言われたのです。このことは何を意味するのだろうか?

※そうです!イエス様は確かに十字架の上では義を失って苦しまれたけれども、しかし、義に飢え渇く者は、再びその義に満ち足りるということです。これが聖書の教えです。聖書が飢え渇く者に約束している神の言葉です。ですからこの後、イエス様は義に飢え渇かれたゆえに、その義を得るために、その義とされるために、義に満ち足りて、よみがえられたのです。

 ペテロはそのためのイエス様の復活について、こう証言をしている。

使徒2:31~32:「それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」

 『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』は、詩編16:10のみことばだが、そのみことばを引用して、彼は、再び義に満たされるためによみがえられたのだと言った。神様がそのことを放置しておくわけなどないだろうと言うのです。

 そして、パウロはそのことを、ローマ4:25で次のように言っている。

ローマ4:25:「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」と。

【結論】

 イエス様は十字架の上で、どれほど義に渇いて苦しまれただろう。それは私たちの救いのためだった。だから私たちは、心から主に感謝をささげたいと思う。しかし、ここにはそれ以上のメッセージがある。それは、私たちもイエス様と同じように、義に対して渇きを持たなければならないということです。義というものがどれほどかけがえのないものであって、それに対してイエス様が渇かれたように、私たちも渇いて求めて行かなければならないほど価値のある、尊いものなのだということなのです。だから聖書はこう言うのです。

へブル5:7:「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」

 イエス様でさえ、その義に渇き、祈り叫び求められたのだから、どうして私たちが義に対して渇かずに、祈り叫び求めないでいることなど出来るでしょうか!

 私たちは救われて神の義とされている。しかし、私たちはそれを汗も流さず、何の労苦もなく、恵みによって与えられているので、その義の尊さ、その救いの尊さを実はなかなか実感できないでいる。だから私たちは義に飢え渇くことが少ないが、しかし、聖書は「義に飢え渇く者は、なんと幸いなのだろうか。」と言うのです。だから私たちもイエス様が「わたしは渇く。」とおっしゃったように、私たちも「わたしは渇く」と言って、心から神に対して義に飢え渇く者であり続けたいと思うのです。そのように、義に対する飢え渇きを持って歩んで行こう!

―祈り―

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