主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書箇所】

ヨハネ19:30

【タイトル】

十字架上の主の7つの言葉(6)「完了した。」

【本論】

 イエス様は十字架の上に架けられて6時間後、もう間もなく息が絶えようとするとき、「わたしは渇く。」と仰った。その言葉を聞き、そばにいたローマ兵は酸いぶどう酒を海綿に含ませ、ヒソプの枝に付けてイエス様の口に差し出した。

V28~Ⅴ29:「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く。』と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。」

 「酸いぶどう酒」とは、過度に発酵はそれを飲料水として飲んでいた。だから、これは文字通りのぶどう酒ではない。またこれは、イエス様が十字架に付けられる時に、ローマ兵がイエス様に飲ませようとした苦みを含んだ葡萄酒のことでもない。当時、刑を執行するローマ兵は、十字架に釘づけられる者に苦痛がないようにと、麻酔効果のある苦みを混ぜた葡萄酒を用いたのである。しかし、イエス様はそれを飲もうともされなかった。(マタイ27:34)イエス様は、私たちの贖いのために、罪から来る私たちが受けるべき全ての苦しみを味わって下さった。私たちはそれによって、罪の贖いを受けているのである。そのことを覚えたい。

 「海綿」とはスポンジのこと。ギリシャ語では「スポンゴス」と言う。「スポンジ」という言葉の語源である。

 「ヒソプの枝」は、ユダヤ人たちが祭りの時に使う植物で、イスラエル人たちがエジプトを脱出する時、彼らの家のかもいと門柱にこのヒソプの枝を使って屠られた子羊の血が塗られた。それによって、神の裁きからユダヤ人たちだけが守られ(神が彼らを過ぎ越され)、エジプト脱出につながったのである。そのために用いられた枝です。だから、この枝には重要な意味がある。

 このようにして、イエス様はローマ兵から差し出されたヒソプの枝に付けられた海面から水を飲まれ、そして「完了した。」と言われた。今日は、そのようにして言われた「完了した。」と言う言葉の持つ意味を見て行きたい。そこには2つの意味がある。

【本論】

(1)イエス様御自身の「贖い主」としての救いのみわざの完了を告げる言葉である。

 イエス様は自ら人々に、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。(罪人を救うために来たのです。)」(マタイ9:13b)と言われた。またイエス様はある時、弟子たちが語った「あなたは、生ける神の御子キリストです。」という信仰告白に対し、次のように語られたと言う。「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」(マタイ16:21)このイエス様ご自身が示された贖いのみわざを、イエスご御自身が今まさに完了されようとしているので、「完了した。」と語られたのである。

(2)私たちを含めた全人類のための贖いのみわざが完了したことを告げる言葉である。

 この「完了した。」という言葉は、原語のギリシャ語では、「テテレスタイ」という。その意味は、この「完了した。」という意味の他に、「支払済み」とか「もう十分」という意味がある。そしてこの言葉は、当時、刑務所の中で用いられていた言葉だった。囚人が牢に入ると、その牢の扉に罪状書きと刑期が記された札が下げられ、刑期が終わると、その札は外されて、代わりに、「テテレスタイ」(支払い済み、もう十分、完了した)と記された札が掛けられた。つまりそのように、札が変えられることにより、「ここに居た囚人は、刑期が完了して、もう罪がなくなり、無罪放免、自由の身になった。」ということを表わす言葉だった。

※イエス様はこの言葉を用いて、私たちの罪の贖いの完了を、御自身の十字架のみわざを持って宣言されたのである。「すべての人の罪は全部贖った。完了した。支払った。もう罪はありません。無罪です。」と宣言されたのです。私たちは生まれながらに罪人として生まれて来た。聖書はそのように教えている。しかし同時に聖書は、その罪の赦しは、イエスキリストの十字架の贖いのみわざによって為されるとも教えている。

ローマ3:23~24:「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

ローマ6:23:「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

この罪の赦しを受けるには、そのことを信じなければならない。では、どのように信じるのでしょう?―口で告白して信じるのです。口で告白して受け入れるのです。

ローマ10:10:「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

 そして、この「信じるということ」がどのようなことなのか、具体的にそのことが理解できるのが、出エジプトの出来事です。ここで、初めに言ったヒソプの枝の重要性が出て来る。

出エジプト12:21~28:「そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。「あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。【主】がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、【主】はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家に入って、打つことがないようにされる。あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。また、【主】が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、あなたがたはこの儀式を守りなさい。あなたがたの子どもたちが『この儀式はどういう意味ですか』と言ったとき、あなたがたはこう答えなさい。『それは【主】への過越のいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて、礼拝した。こうしてイスラエル人は行って、行った。【主】がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。」

 イスラエル人たちはエジプトでの奴隷の身から自由になるため、神様から家族ごと、或いは少人数の家族なら隣近所の家の人たちと一緒に一頭の傷のない子羊を屠り、その血を家のかもいと二本の門柱にヒソプの枝を使って付けるように言われた。彼らはそうすると、その晩、主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと門柱に血が塗られたイスラエル人の家だけが過ぎ越され、打たれることなく、そしてエジプトを脱出することが出来たというのである。ここに、屠られた子羊による民族的なイスラエルの救いのことが描かれており、私たち異邦人を含んだ全人類の罪の贖いが描かれている。そしてここで大切なのが、屠られた子羊と、その血が一軒一軒の家のかもいと門柱にヒソプの枝を持って塗られたということです。そのことは、私たちの罪の贖いのために屠られた子羊であるイエス様の血の効力を心から信じる私たちの信仰を表わすものです。

※私たちの罪の赦しはここに原点があると同時に、将来の私たちにとっての最後の審判(へブル9:27)における裁きからの救いの保証でもある。だから、私たちはその時までしっかりと信仰を保たなければならないのです。

ローマ8:1:「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」

 「キリスト・イエスにある者」=心のかもいと門柱にしっかりとイエス様の血を塗っている人、信仰を保つ人。その人は、最後の審判においても、裁きを過越しのように免れるのです。

【結論】

 だから今日、もう一度、私たちのために掛かって下さったイエス様の十字架を覚えよう。そして、そこでイエス様が宣言して下さった「完了した。」という言葉を覚えて歩もう。

―祈り―

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