イースター礼拝メッセージ:ウィリアム・ウッド師

【聖書個所】

ヨハネ20:19~29

【タイトル】

「見ずに信じる者は幸いです。」

 皆さん、イースターおめでとうございます。いつもと大分、違う感じのイースターになってしまいましたが、共に死から甦られたイエス様を見上げて行きましょう。

 先日、鳩山ニューライフ・チャペルで、御用をさせていただきました。コロナの影響で、いつものメンバーが数人しかいない礼拝を想像しましたが、フィリピンから来た女性とその娘さん、ペルの兄弟、そしてキューバから来たという兄弟(アンディーさん)も来ていました。どこまで私の日本語を理解できたか分かりませんが、じっと私の顔を見ながら、メッセージに聞き入っていました。礼拝後の交わりの中で、英語とスペイン語と片言の日本語を交えながら、少しアンディーさんと話をすることができました。彼は何と、キューバでブーズ―教(西インド諸島で行われる迷信的慣行で魔法・まじない・へび崇拝・人身御供など含む)の祈祷師をやっていたのです。なぜ、日本に来ることになったか聞けませんでしたが、彼はイエス様に出会って変えられ、今鳩山で熱心にトラクトを配っているそうです。途中から、私はとても不思議な気持ちになりました。アメリカとキューバは、昔から敵国同士でした。しかし、今、アメリカ人とキューバ人は長年の親友のように、何のわだかまりもなく、親しく話ができる。主イエス様の救いの偉大さを考えさせられました。どこの国の人であろうと、イエス様に出会うと、全く別人のように変えられるのです。復活されたイエス様に出会った主の弟子たちにも、驚くべき変化が起きました。

 ヨハネの福音書20章19―25節を、一緒に読んでみましょう。この時の弟子たちは、まさにロックダウン(都市封鎖)状態でした。自分たちの身に危険が及ぶと恐れて外に出られず、部屋に閉じこもっていました。何の希望もなく、完全に打ちひしがれていました。しかし、そのような彼らのところに、甦られた主が来られたのです。そこでまず、彼らの恐れが平安に変わりました。「平安があなたがたにあるように」と、イエス様が2度も話しかけておられることに注目しましょう。主のみこころは、私たちが恐れに支配されることではなく、いつでも平安を持つことです。そして、私たちがその平安を実感するのは、主が生きておられ、私たちと一緒にいてくださることを覚える時です。次に、「私たちはもう、終わりだ」と落ち込んでいた弟子たちに、新しい使命が与えられました(21節)。彼らは、もう外には出られないと思っていましたが、福音を携えて、堂々と出かけられるようになります。第3番目に、すべてのエネルギーを吸い取られて、魂の抜け殻になっていた弟子たちは、聖霊に満たされました。聖霊は人間のいかなる不足を十二分に補うことのできる方です。第4番目に、主を見捨ててしまったことを悔やみ、罪責感で苦しんでいた弟子たちは、罪の赦しを宣言する者へと変えられました(23節)。私たちも、自分で罪の赦しを経験した者として、イエス様を信じる人々に対して「あなたの罪は赦されました」という素晴らしいメッセージを伝えることができます。このように、復活された主に出会って、多くの恵みを受けた10人の弟子たちは、その場に居合わせなかったトマスにも、その恵みを分かち合おうとしました。しかし、思わぬ反応が返って来ました。「自分の目で確かめない限り、決して信じない」と言い張るのです(25節)。なぜ、彼は信じられなかったでしょうか。まず第一に、イエス様が他の弟子たちに姿を現された時、自分が不在であったからです。用事を頼まれて出かけていたのか、しばらく一人になりたかったのか、分かりませんが、弟子たちと一緒に同じ恵みを体験できませんでした。確かに、自分で体験していないことを信じるということは、なかなか難しいことです。第二に、他の弟子たちの証言を素直に受け入れる気持ちになれなかったからです。トマスはとても正直な人間でした。他の弟子たちの証しに納得できない自分の気持ちを偽って、彼らに調子を合わせるようなことは、彼の良心が許さないのです。自分の気持ちを正直に語ることは、勇気の要ることです。普通、長い物には巻かれるのが人間です。自分に正直であり続けるためには、大きな勇気が必要なのです。それは時には苦痛を伴うことさえあります。最も信頼し合うべき仲間の証言が信じられません。それも仲間のうちの一人か二人とかの証しではありません。10人全員の証言です。こうした仲間と毎日、一緒にいるのは、どんなに辛いことだったでしょう。第三に、トマスが信じられなかったのは、自分で確認しなければ信じない性格だったからです。そのような性格を持つことは、罪なのでしょうか。必ずしも、そうではないと思います。主が必ず、「信じたい」という気持ちを汲み取ってくださり、確認するチャンスを与えてくださるからです。もし、そのような機会を与えられても「信じない」と言い続けるなら、罪になるでしょうけれども、主は、信じたくても信じられない者を拒絶せずに、ご自身を現してくださるのです。

 ヨハネの福音書20章6―29節を読みましょう。主はトマスのすべての疑問に答えてくださり、最後に、「信じる者になりなさい」と彼に命じました。トマスはその命令に応答して、「私の主。私の神」と告白しました。こうして、トマスは自分の目で確かめて、信じる者となった訳です。決して、理想的な信仰の入り方ではないかも知れません。29節で、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」と主が言われるように、見なくても信じられる者こそ、幸いです。「見ずに信じる者は幸いです。」コロナ危機に直面している私たちにとって、最も重要なみことばだと思います。今は、一人一人が我慢したり、辛い思いをしたり、不自由を感じたりしていることでしょう。共に集まることができない状況の中にあって、余計に不安に陥っている方もいるかも知れません。しかし、この試練はいつまでも続くものではありません。必ず、長いトンネルの出口が見えて来ます。死に勝利された主はすべてを働かせて、益としてくださいます。100年ほど前の、米国アラバマ州の農民たちの話ですが、この地域では、綿花を栽培し、年に一度だけ収穫していました。それが、長年にわたるここでの習慣でした。出来るだけ広い面積を耕し、そこで綿花を栽培する。来る年も来る年も、その繰り返しでした。ところがある年、恐ろしいことが起こりました。綿花を食い荒らすコクゾウムシの被害で、その年の綿花が壊滅状態になってしまったのです。翌年、農夫たちは自宅を抵当に入れ、豊作を期待しながら再び綿花栽培に取り組みました。しかし、その年も、あの害虫が綿花に取り付き、甚大な被害をもたらしました。3年目になって、農夫たちは藁をもつかむ思いで、新しい作物を実験的に植えてみようと相談しました。採用されたのは、ピーナツでした。その年、ピーナツは大豊作で、しかも綿花よりも高く売れました。その結果、実験に参加した農夫たちは、過去2年間の借金をすべて返済することができたのです。それから彼らは、毎年ピーナツを栽培するようになり、それがその地区全体に広がりました。ピーナツは莫大な富を彼らにもたらした訳です。面白いのは、その後、その農夫たちが何をしたかです。彼らは、手に入れた富の一部を差し出し、町の中央広場に記念碑を建てました。何とそれは、コクゾウムシをかたどった像でした。コクゾウムシの被害に会わなければ、ピーナツ栽培を始めることはなかったのです。どんな試練にも、神の深い目的があります。何も分からなくても、何も見えなくても、主を信じ続ける者に、必ず、幸いが来ます。弟子たちの恐れが平安に変えられたように、絶望が希望に変えられたように、私たちも最後に、「辛かったけど、守られた」とか、「多くのことを学んだ」とか、「兄弟姉妹との絆が強まった」とか、「更に深く主を知ることができた」とか、「天の希望が与えられていることを感謝できた」とかいうような証しができるのでしょう。気落ちせずに、甦られた主に期待しましょう。

―祈り―

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