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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

ルカ23:44~46

 

【タイトル】

十字架の上の主の7つの言葉(7)―主よ。御手にゆだねます。―

 

 今日は、十字架上の主の7つの言葉の7回目、ルカ23:44~46から、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と語られた、イエス様の十字架上の最後の言葉についてメッセージを取り次ぎます。

 

ルカ23:44~46:「そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。」

 

【本論】

 イエス様が十字架に架けられたのは、マルコ15:25によると午前9時。そして、マタイ27:45によると、12時ごろ突然暗くなり、それが3時まで続いたという。ルカの福音書では、その突然暗くなった理由を、このルカの福音書を書いたルカは「太陽は光を失っていた。」(Ⅴ45)と言いました。彼は医者だったので、日食という現象を科学的に知っていたのかどうか分からないが、これは太陽が月の影に隠れ暗くなった時の日食のことを表わしている。そう、この時、太陽はそこに存在していたが、人から見て、太陽との間に月が入ることにより、太陽の光を失ったという、まさにこれはその時の人間と神様との関係を象徴的に表しているものであった。つまり、罪が私たちと神様との間に入れば、私たちは神様を見ることも出来ないということなのです。

 

 罪とはそのように、神様との交わり、神様との完全な関係の断絶を表わします。

 

イザヤ59:1~2:「見よ。【主】の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」

 

 その神様との関係の断絶、すなわち罪を、ここでは「仕切り」という言葉で表わしているが、その仕切りがあるかぎり、決して私たちは神を見ることも、知ることも、まして神のみこころである公義や公正を行ない、神に近づくことなど出来ないと、聖書は言うのです。

 

イザヤ59:10~11:「私たちは盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。私たちはみな、熊のようにほえ、鳩のようにうめきにうめく。公義を待ち望むが、それはなく、救いを待ち望むが、それは私たちから遠く離れている。」

 

 私たちは、私たち自身では、私たち自分を救うことなど出来ないということです。しかし聖書は、同時にこう言います。

 

イザヤ59:15b~16:「【主】はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」

 

 私たちは私たち自身では神の義を満足させ、自分を救い得ないので、「ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」(Ⅴ16b)つまり、御子であるイエス・キリストを送ることによって私たちを救おうとされた。それがイエス様の十字架による贖いなのです。ルカは、そのイエス様による贖いのみわざについて次のように言いました。ⅴ45:「また、神殿の幕は真二つに裂けた。」と。

これは、「エリ、エリ、レマサバクタニ。わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)と叫ばれ、そして息を引き取られた時、「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。」(マタイ27:51)とあるように、イエス様が十字架の上で救いのみわざを成し遂げられた時に起きたことです。

 

 神殿には律法に基づいていろいろな仕切りがありました。異邦人の庭、婦人の庭、男子だけしか入ることが出来ない庭を仕切る壁である。そして、私たちと神様との関係において最も重要な仕切りが、聖所と至聖所とを分けていた神殿の幕でした。この幕は、年一回、大祭司がすべての民の罪の贖いのために至聖所に入って贖いをするために上げられる幕だった。しかし、それは毎年行われなければならない不完全なものだった。そこで神が、完全な贖い主として御子を遣わして下さったのである。へブル書の記者はそのことを次のように記している。

 

へブル9:11~12:「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

 

 主は私たちと神様との間にある仕切りの幕を完全に裂いて下さり、そのままでは決して近づくことも出来ない至聖所に入り、神様をアバ父と呼ぶ御子の霊を与えて下さったのです。

 

ガラテヤ4:4~6:「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」

 

 「律法の下にある者」とは、罪ある者、神との間に仕切りのある者ということ。この証しが、イエス様の十字架上の最後の言葉、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」という言葉です。この直前では、「エリ、エリ、レマサバクタニ」と、父なる神様を「父よ」と呼ぶことなく、裁かれる者として「神よ。」と呼びました。しかし、今、贖いのみわざを完全に成し終えた者として、ふたたびイエス様は御子として父なる神様に、「アバ、父。」と叫ばれたのである。これは、イエス様によって神様との間の仕切りの幕が取り払われた者とされた私たちも同じです。イエス様によって私たちは父なる神様との関係が贖われたのだから、イエス様が「アバ、父よ。」、「父よ。御手に委ねます。」と言われたように、私たちも今は神様との関係において、このことを言うことが出来るのです。そしてこれはまた、私たちの父なる神様に対する子である私たちの究極の信仰の告白です。私たちには個人的な願い、計画、望み、欲求があるでしょう。しかし最後には私たちは、自分の願いや計画、望みや欲求ではなく、「主よ。あなたのみこころがなるように。父よ。御手に委ねます。」と、イエス様があのゲッセマネで祈られたように、この祈りをすることができるのです。

 

【結論】

 今日、緊急事態宣言が出されてからかなりの程度の外出自粛や、三密が守られているとは思う。しかし、依然として感染拡大の勢いが止まる気配がありません。今でも多くの医療者や関係者が生命を掛けて戦い、また私たちもそれぞれに犠牲を払ってはいるが、いつピークに達し、感染カーブが下降して行くのか分からない。しかしそれでも、私たちは主を信じて祈り続けよう。神様は決して私たちを忘れているわけではなく、一人一人が守られること、贖われることを求めているのだから。だから、「主よ。御心がなるように。父よ。御手に委ねます。」と祈り続けよう。

 

―祈り―

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