主日礼拝メッセージ:ウィリアム・ウッド師

【聖書個所】

​Ⅰヨハネ2:12~17:

【タイトル】

神のみこころを行なう者

 「天に財を積んだ経済人」として知られる森村市左衛門がいます。1839年に生まれた森村は、日米貿易の開拓者で、1876年に創設した貿易会社、森村組が現在の森村商事です。また彼は、関連会社であるTOTO、日本ガイシ、INAXなどを包含する「森村グループ」の創業者でもあります。森村はこうして、偉大な実業者として名を挙げ、一代で巨大な富を手に入れました。しかし、それにもかかわらず、自分にもし成功談があるとすれば、「キリスト様を信じて救われ、永遠の命を得たこと、これ以外にはない」と断言したのです。森村がイエス様に出会ったのは、1913年、つまり彼が73歳の時のことでした。そのきっかけを、次のように説明しています。「私は、これまで心がけてきた仏教や儒教では不十分なることを悟り、社会の廓清(今まで積もり積もった悪いことを、すっかりはらい清めること)と同胞の救済とのために断然、宗旨更えを敢えてし、基督教を信ずるに至った。」このように、森村は富や名誉の追及に虚しさを覚え、日本社会の改良、また同胞の救いのために生きる者に変えられたのです。「人生は真剣」という小文の中に、彼は次のような言葉を残しています。「天地は神の造り給うた美しい舞台である。この上で演ぜられるべきものは、その舞台に相応した真剣で心をこめた劇でなくてはならぬ。人間の小刀細工のいい加減なごまかしは駄目である。」確かに、この世は、神が私たちのために備えてくださった舞台であると言えます。そして、私たちは神のドラマの中で、一生懸命に与えられた役を演じるべきですが、最も大事なことは、神の脚本に従うことです。神のみこことを行なうことです。今日はそのことについて、一緒に考えてみたいと思います。

 ヨハネの第一の手紙2章12―17節。ヨハネはここで、まず、読者を三種類の言葉で呼んでいます。「子どもたちよ」(または「小さい者たちよ」)、「父たちよ」、「若い者たちよ」です。「子どもたちよ」は2章1節と同様に、クリスチャン全員を指す言葉であって、ヨハネは彼らを「父たち」(信仰歴の長い円熟した信者たち)と「若い者たち」(新生したばかりの新米クリスチャンたち)の二つのグループに区分したと思われます。最初に、前読者へのメッセージとして、「主の御名によって、あなたがたの罪が赦された」とヨハネは語ります。この「御名」というのは、単なる呼称ではなく、その名が代表するものを意味します。キリストがいかなる方であるか、何をしてくださったかによって、彼らと神との関係は回復されたのです。このメッセージは2度、繰り返されますが、私たちは、「あなたの罪は赦された」と何度言われても、喜びが湧き上がって来るのではないでしょうか。あなたの過去のどんな罪も失敗も、キリストの血潮によって帳消しにされています。次に、ヨハネは円熟した父たちに対して、「初めからおられる方を知った」と言って、彼らの確信をより強固なものにしようとしています。ここに注目すべき、最も重要な点は、円熟したクリスチャンの特徴です。彼らは、多くの人生経験を積み、多くの功績を残したから「父たち」と呼ばれているのではありません。彼らの信仰を一番特徴づけているのは、「初めからおられる方を知った」ことです。そうです。熟練したクリスチャンとは、神を深く知るようになった人なのです。エレミヤ書9章23―24節を読みましょう。霊的に未熟な者は、自分の知恵や力、あるいは富を誇ります。しかし、霊的成長を遂げた者は、主を知っていることだけを誇るのです。父たちは「初めからおられる方」を知っていました。創造主なる神は、永遠から存在しておられる方で、すべての物の根源です。黙示録では、「アルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」と呼ばれています(22:13)。この方を知っている者は、何を考えるにしても、どんな行動を取るにしても、まず、この方を意識して、この方のみこころが何であるかを確認しようとします。ここに、成熟した歩みの基本があります。3番目に、ヨハネは「若い者たち」に対する激励を送ります。彼らは熱心にみことばを学び、みことばによって強められ、サタンに勝利した人々です。ペテロは、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい」(1ペテロ2:1)と述べていますが、新米のクリスチャンにとっては、最も重要なことだと言えます。イエス様を信じて救われても、その後、前の生活や考え方に戻るように、サタンが必死になって、あらゆる手を尽くし、誘惑してきます。そのサタンの餌食にならないためには、みことばの力が必要です。

 続いて、ヨハネはクリスチャンと世との関係について戒めています。ここではグループの区別をせずに、クリスチャン全体に対する言葉として書き送っています。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません」とありますが、「世」とは、神から離れ、神に敵対する人間社会のことです。世は、サタンの支配下にあります。ですから、教会と世は対立関係にある、ということになります。勿論、私たちはこの世の一員として、社会生活を送っているし、世の人々を愛していかなければなりませんが、彼らの生活や考えの根底にあるものを決して受け入れる訳にはいかないのです。ヨハネの戒めは厳しいものです。「愛してはなりません」は、「絶対に愛してはなりません」という強いものです。では、何故、世を愛してはならないのでしょうか。ヨハネは三つの理由を挙げています。まず第一に、15節の後半にあるように、人は二つの正反対のものを同時に愛することができない、ということです。世を愛するか、御父を愛するか、です。主イエス様も、「だれも、ふたりの主人仕えることはできません」と言われました(マタイ6:24)。ヤコブも、「世を愛することは神に敵対することだ」と述べています(ヤコブ4: