主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師


【聖書個所】

Ⅱペテロ3:11、ローマ12:1~2:

【タイトル】

「聖い生き方をする敬虔な者(7)―コロナ後の私たちの生き方―」

【序論】

 緊急事態宣言が解除され、こうして集まって礼拝を捧げることが出来るようになった。本当に感謝である。しかし「あ、これで良かったな~。」と思ってもいいが、それで終わってはならない。何故なら、今回の問題を私たちが体験したということは、それ以上の意味がそこにあるからです。今日は、その意味について考えてみたい。コロナ後の私たちの生き方はどうあらねばならないだろうか?聖書は何と言っているだろうか。

Ⅱペテロ3:11:「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」

 この終わりの時代になると、コロナウィルスのような疫病、地震、戦争、その他、さまざまなことが起きて、やがて主の日が来ると、この世のすべてのものはくずれ落ちて無くなってしまう。だから、私たちは「どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」と言っている。これは、コロナウィルス、或いは、今後これに類するような感染病が出現した時に、それらに感染することが無いように、今回「新しい生活様式」というものが出たが、そのような「外見的な生活の様式」のことではなく、信仰者の内面的なことです。そしてこのみことばは、このようにこの世のすべてのものは崩れ落ちてしまうのだから、私たちは「もっと聖い生き方をする敬虔な者にならなければならない。」という「行ない」のことを言っているのではなく、私たちはもう既にイエス様の贖いによって「聖い生き方をする敬虔な者」になったのだから、私たちは「どれほど聖い生き方をする敬虔な者」でなければならないかという「状態」のことを言っているのである。このことを私たちはしっかりと知らなければならない。

 似た文脈で、パウロはローマ12:1~2でも同じことを言っているので、今日はそちらの主題聖句に移ってメッセージを語る。

【本論】

ローマ12:1~2:「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

 ここでパウロは、前節を受けて「そういうわけで」と言っているが、前節では何と言っているかと言うと、ローマ11:36:「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」とあるように、パウロはここまでで、ユダヤ人と異邦人、そして、それぞれに関する神の選びと召命、また救いの教義について語り、そして、最終的にはそれらはすべて人知を超えた神の遠大な御計画の中にあることなのであると言っているのである。それが、Ⅴ36:「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。」ということで、すべての根源が神にあって、すべては神によって保持され、そして、その意味も目的も神にあるということなのです。すべては結局、神の御手によって治められているということです。だからそれを受けてパウロは、「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」というのです。これは結局、Ⅱペテロ3:11:「聖い生き方をする敬虔な人」となったのだから、そのように生きるということと同じことです。そして、そこで協調されていることは、「どれほど」そうでなければならないか、ということなのです。

◎この「どれほど」というのは、どういうことでしょう?神様は私たちに、「どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」と願っているのでしょうか?「どれほどあなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」と願っているのでしょう?―「出来る限りでいいよ」とか、「まあ、適当でいいよ」とか、そういうレベルでしょうか?―いいえ。聖書はこういます。

ローマ12:1:「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」

 最後に、「それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」とあるように、「霊的な礼拝」とは、「合理的な、理に適った礼拝」という意味ですから、「理に適う」というのは、何の理に適うかというと、それは、「神のあわれみのゆえに」とあるように、イエス様の十字架の贖いのみわざ、イエス様の尊い救いのみわざ、イエス様が御自身の尊い血潮を流して下さり、その流された血潮の代価に適う、匹敵するほどにいうことなのです。

※神様は私たちに、そこまでの完全な献身、純粋な信仰を求めておられます。マタイ5:48では、「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」とあるが、「完全さ」とはそういうことです。神様は、私たちの行ない、出来栄え、業績の完全さではなく、私たちの心の完全さ、純粋さを求めておられるのです。

◎では、どうすれば、それが可能になるのでしょうか?―パウロは続けてV2でこう言う。

V2:「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

 この個所は、2017年版の方が分かりやすいので、そちらの方で語る。

V2(2017年版):「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

 これは私たち信仰者にとって大きな課題ですが、ここでは3つの重要なことが語られている。先ず;

①「この世と調子を合わせてはいけません。」:私たち信仰者のチャレンジ、難しい点はここにある。私たちは生まれながらにこの世に生まれ、救われた後もこの世に生かされている。だから、この世と調子を合わせないで生きるというのは非常にチャレンジである。この世の生き方、考え方に影響されないで生きて行こうと思っても、目に入るもの、耳に入るもの、また人間関係の中で、この世の価値観や考え方が入って来てしまうからです。しかし、もし私たちが、アダムとエバがあの善悪の知識の実を取って食べたように、私たちもこの世と調子を合わせたら、私たちの信仰生活を失われる。私たちの信仰は滅びる。何故なら、この世は神を信じる世ではなく、神を信じない世界だからです。

◎ではどうすればよいか?―「むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」とあるように;

②「心を新たにすること」です。:「心」とは、マインド、思い、考え、思考のこと。そして、この思考は、何を見るか、何を聞くか、何を知るかという、外部から入って来るものによって動く、影響されるものです。そして、「新たにする。」とは、「アナカイノー」。「アナ」再び、「カイノー」新しくすると言う。「もう一度変える」ということです。私たちは贖われて神の子になった。聖なる生き方をする敬虔な者になった。ところが、私たちはこの世に生きているから、この世のいろいろなものが、目からも耳からも、五感を通して、人間関係、さまざまなものを通して入って来る。それによって私たちの思考は動く、影響を受ける。だから聖書は、再び新しくしろと言うのです。それはちょうど私たちの前に二つのテレビ或いはラジオがあるようなもの。私たちは救われて、神のテレビ、神のラジオとつながって、そこから情報を、目からも耳からも、五感を通じて得るようになったのだけれども、私たちは生まれながらにこの世に生きているので、ついこの世のテレビにラジオにつながってしまう。だから、「再び新しくしなさい。」、「切り替えなさい。」、「方向転換しなさい。」と言うのです。そうすると、「そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」とあるように、

③「見分けるということ」です。:この「見分ける」ということは、「この世と調子を合わせてはいけません。」の、「調子を合わせる」と同じような意味を持っている言葉、対比される言葉です。「見分ける」:ドギマゾー:ためす。見分ける。弁別するという意味の言葉。先ほど、私たちはつい放っておくと、私たちの思考の指向、向かう所はこの世だと言った。この世のテレビ、ラジオだと言った。しかし、私たちは、この世と調子を合わせないために、「再び新しくする」、「向きを変えて切り替える。」と言った。しかし、それだけでは不十分です。私たちはそれから、そのテレビ、ラジオにきちんと波長、調子を合わせなければならない。今はデジタルなので実感出来ないが、昔はアナログだったので、特にラジオの場合、チューニングつまみを回して、ピタッと放送局の周波数に合わせなければ完全に聴くことは出来ない。そのために、私たちは周波数を弁別しなければならないのです。ラジオに詳しい人は知っていると思うが、そのことを専門的には、周波数を合わせる、弁別すると言う。

※このように私たちは、神の御心が何であるのかを見分けるために、心のチューナーをしっかりと、完全に神様の周波数に一致するようにと回さなければならない。決して、「まあ、この程度でいいや。」では、雑音が多くて神様のみこころを見分ける、聴き分けることが出来ないからです。それが、「どれほど私たちは聖い生き方をする敬虔な者でなければならないでしょう。」ということであり、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」ということです。

【結論】

 神様は、私たちを聖い生き方をする敬虔な者とするために、「どれほど」私たちを憐れんで下さったのでしょう。愛して下さったのでしょう。ヨハネ3:16:「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあるように、御子イエス様をお与えになったほど愛して下さったのです。だとするならば、私たちも同じほどに、その憐れみに応えて、いい加減にではなく、しっかりと神様のみこころを見分けて、弁えて、聴いて、見て、従って行きたいと思うのです。

 それが、「あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」ということです。

―祈り―

これまでのメッセージ

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