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これまでのメッセージ

主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

Ⅱペテロ3:11:「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだと

すれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」

【タイトル】

「聖い生き方をする敬虔な人(8)―狭い門から入りなさい。―」

【序論】

 今日もまた、このみことばから始めて行く。このみことばの伝えるメッセージは極めて明確で、この世のすべてのものは、世の終わりが来ると、どんなものでも燃えて崩れ去り、消え去ってしまう。だから、そのようなものを頼りとしないで、神様がくださった聖さ、敬虔さを大切にして、ますますそのようにして生きて行こうではありませんか、と教えているみことばです。

 この世には、目には見えないけれども神の国とサタンの国がある。勿論、神の国の方がサタンの国よりも力があり、その支配と領域において遥かにまさっているが、しかし、イエス様が再臨されて千年王国が過ぎ去るまで、今の時も、サタンの国は地上にあって、さまざまな形で人々を、そして私たちをも食い尽くそうと働いている。Ⅰペテロ5:8bにある通り。

Ⅰペテロ5:8b:「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」

※こういう時代に生きている私たちだからこそ、ペテロは、この世と共に滅びることがないように、「あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」というのです。

 今日もう一度、神の民とされて神の国に生きている私たちに対し、この「どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないか」と言っていることについて、同じく神の民としてどのように生きて行ったらよいかを教えているマタイの山上の説教の個所からメッセージを語りたいと思う。マタイ7章では、相反する二つの事物を取り上げて、それを語っている。例えば、Ⅴ3~Ⅴ5:「兄弟の目の中のちり、自分の目の中の梁」、V6:「聖なるものと犬、真珠と豚」、Ⅴ13~Ⅴ14:「狭い門と広い門、いのちに至る門と滅びに至る門」、Ⅴ17~Ⅴ20:「良い木と悪い木、良い実と悪い実」、Ⅴ24~Ⅴ27:「岩の上に自分の家を建てた賢い人、砂の上に自分の家を建てた愚かな人」等、私たちに馴染のあるものです。今日はその中のV13~Ⅴ14、「狭い門と広い門」、聖書には「広い門」という言葉はなく、「滅びに至る門」という風になっているが、読めば分かるように、それは「狭い門」に対する「広い門」のことなので、このイエス様が語られた「狭い門と広い門」のメッセージについて取り次ぎたいと思う。

マタイ7:13~14:「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」

【本論】

 聖書は私たちに対して、「狭い門から入りなさい。」と言う。何故か?―それは、広い門を通るならそれは滅びに至る道なので滅んでしまう。だから狭い門から入れと言う。しかし、不思議なことに聖書はその滅びに至る門に入る人が多いと言うのです。どうして滅びに至る門に人は多く入って行き、滅びに至る道に人が多いのだろう。聖書は、やはりその理由を明確に述べている。

V13b:「滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。」

※門は大きく、道は広い。これが理由です。もし今私たちの前に、広くて大きい門と、狭くて小さい門、そして、広い道と狭い道とがあったら、皆さんはどちらの門を通って行くだろうか?どちらの道を選んで行くだろうか?―恐らく、広くて大きい門、広くて通り抜けやすい道を選んで通って行くだろう。リビングバイブルには、このV13は次のように記されている。

LB:V13:「狭い門を通らなければ、天国に入れません。人を滅びに導く道は広く、大ぜいの人がその楽な道を進み、広い門から入って行きます。」

※そうです。人は誰でも大変な道ではなく、楽な道を進みたいものなのです。

 ここで、今日のメッセージの原点に帰りたいと思うが、今日はどうしてこの聖書箇所を選んでメッセージをしているかというと、「狭い道を通らなければ、天国に入れません。」とあるように、どうすれば天国に入れるか、どうすれば救われるかという話ではなく、「聖い生き方をする敬虔な者」として、この世の終わりに当たって滅びることがなく、その聖さ、敬虔さをどのように保ったら良いかという話をしている。救われるための話ではなく、滅びないための話です。このことを、今一度覚えておきたい。そこで聖書は結論として、私たちが「聖い生き方をする敬虔な者」として、この世と共に滅びることなく、私たちが受けた聖さ、敬虔さを失わないために、こう言う。―「狭い門から入れ」と。

 では、私たちクリスチャンにとっての「狭い門」とは何か?―わざわざ難しいことをするとか、敢えて大変なことをするとか言うことだろうか?―否、そうではない。聖書ははっきりと、私たちが救われるためには、イエス様に対する信仰のみであり、また救いの完成、天の御国まで入るために必要なのも、イエス様に対する信仰のみであることを教えている。そして、私たちの労苦は、私たちの救いにも、救いの完成にも何一つ関係ないことも教えている。

Ⅰペテロ1:5:「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。」

箴言10:22:「【主】の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」

※イエス様の贖いの力だけが私たちの聖さと敬虔さを保ち、救いの完成に至らせて下さるのです。

 では、私たちにとっての、この「狭い道」とは何か?―それは、私たちと神様との関係における、神を第一にする、神を神とする信仰です。この方以外に神はいないという信仰です。何週間か前のメッセージだったが、イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)と言われた。また、ヨハネ10:9では、イエス様は、「私は門です。だれでも私を通って入るなら、救われます。」と言っている。このように、「狭い道」、「狭い門」とは、イエス様だけが道であり、イエス様だけが門であり、他には道はない、他には門はないということです。私たちが信じて、信頼して、歩む道、門は、このOne Way、One Gateであるイエス様以外にはないという信仰のことです。しかし、この道を歩むのは、実はなかなか難しい。何故なら、人はどうしても生まれながらに、先ほどの散歩の時の例を挙げたように、反射的に、本能的に、楽な方へ、楽な方へと、道を選びやすい。門を選びやすい。また、多くの人が歩んでいる道を選びやすい。誰かが「これが道だ。」と言えば、余り良く考えずに、あの人が言うのだから大丈夫だろうと、それを鵜呑みにしたり、多くの人がその道を、その門を選んでいるから、「では私も、或いは私たちも」と、ただこの世の流れに調子を合わせて、選んでいることが多いのではないだろうか。

 私たちクリスチャンの世界においても、それらを見ることがある。だからイエス様はこう言われたのである。

マタイ5:14:「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」

LB:V14:「しかし、いのちに至る門は小さく、その道は狭いので、ほんのわずかな人しか見つけることができません。」

 どの程度、どの位の割合かも分からないが、私たちの信仰生活に於いて、イエス様が「わたしが道である。」と言っているのに、「私が門です。」と言っているのに、「いや、イエス様、この道は私たちで何とかやって行きますから、イエス様の存在は必要ないですから、ちょっと脇にどいていて下さい。」と言って、自分たちを神様以上にしてしまうのです。「いのちに至る門」、「その道」、「イエス様を神、王」とする道は、門は人気がないからです。また、イエス様を信じて救われたクリスチャンでも、自分を神よりも高く置くのであるならば、その人は終わりの日の裁きの時に、その行ないのために裁かれるのです。

マタイ7:21~23:「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」

 何故イエス様は彼らを知らないと言われたのか?ーそれは、彼らが門である、道であるイエス様を彼らの門、道としなかったからであり、その門を、その道を通らなかったからです。その門を通らなければ、その道を通らなければ、どうしてイエス様は彼らを知り得ようか。だから、イエス様はそのように言われたのである。 

【結論】

 私たちは、One Way唯一の救い主であるイエス様によって救われた者。だから、最後までこのイエス様を私たちの主として崇め、信じて信頼して委ね、そして歩んで行こう。

―祈り―

 

 

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