主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

ルカ10:25~37

【タイトル】

「あなたも行って同じようにしなさい。」

【序論】

 ある日本人留学生がアメリカのホストファミリーにお世話になっている時、ホストファミリーから教会に行くように誘われた。しかし、彼は2年間の滞在中一度も行くことはなかった。そんな彼が日本に帰ると、そこである人からイエス様の話を聞き、イエス様を信じるようになった。そのことを彼はかつてお世話になったホストファミリーの方に知らせるメールの中で、彼は彼らにこう書いた。「教会に来て下さいだけではなく、どうしてイエス様について話してくれなかったのですか?」と。

※人が救われるのは、イエス様を知り、イエス様を信じて救われる。教会に来ることによってでも、聖書を読むことによってでもない。何故なら、キリスト教というのは、イエス様との関係だからです。イエス様は言われた。

ヨハネ5:39~40:「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」と。

 どんなに聖書を調べても、イエス様を信じなければ、人は永遠のいのちを得ることは出来ない。聖書が証言しているイエス様のところへ行くことが大切なのです。

◎今日は、この私たちがイエス様を信じて救われる「救いに至る信仰」について、もう一度、何が大切なのだろうかということを、聖書から一緒に考えて行きたい。

【本論】

 ある律法の専門家がイエス様に「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることが出来るでしょうか。」(Ⅴ25)つまり、「どうすれば救われますか?」と訊ねた。それに対して、イエス様は次のように答えた。

V26~Ⅴ30a:「イエスは言われた。『律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。』すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」イエスは言われた。『そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。』しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。『では、私の隣人とは、だれのことですか。』イエスは答えて言われた。」と言って、イエス様は有名な「良きサマリヤ人」の譬えを語り、その中の、強盗に襲われて半殺しの目に遭った人に遭遇した3人の人を取り上げ、その中で、「だれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」(Ⅴ36)と訊ねた。すると、初めにイエス様に質問した律法学者が、「その人にあわれみをかけてやった人です。」(Ⅴ37)と答えると、イエス様は彼に「あなたも行って同じようにしなさい。」(Ⅴ37)と言われた。

※ここに、この聖書と、この聖書が証言しているイエス様との関係で、私たちがイエス様を信じて救いに至るために必要な、大切な幾つのステップがある。「何と書いてあるか」⇒「どう読んでいるか」⇒「どう思うか」⇒「あなたも行って同じようにしなさい。」というステップです。私たちとイエス様との関係において、私たちが本当にイエス様を信じて救われるためには、正確に言うなら、救われていることが証しされるためには、行動が必要だというのです。

ヤコブ2:14~26:「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。さらに、こう言う人もあるでしょう。『あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。』あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。ああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」

 このように、義と認められる、救いに至る信仰には行ないが伴うということです。イエス様はまたある個所で、言葉や信仰だけでなく、行ないの大切さについてこのように言っている。

ルカ6:46~49:「なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」(マタイ7:24~では、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」、「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」)

 このように、滅びることのない、救いに至る信仰のためには行ないが必要であることが分かる。そしてイエス様はもう一つ、この「行ない」について、あの譬え話を通して大切なことを語られた。イエス様は、「あなたも行って同じようにしなさい。」と言われたが、「同じように」とは何に対して同じようにと言われたのだろうか?

ルカ10:36~37:「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。『その人にあわれみをかけてやった人です。』するとイエスは言われた。『あなたも行って同じようにしなさい。』」

※「憐れみを掛けなさい。愛、憐れみ、慈しみの心を持って生きなさい。」ということです。私たちがイエス様を信じて本当に救われたのならば、私たちには、その信仰が証されるような、愛と憐れみ、慈しみに満ちた行ないが伴うというのです。それも当たり前のように伴うというのです。

イエス様はこの譬え話に入るに当たり、私たちにとって無くてはならない戒め、それは、イエス様を信じて救われたのならば、「当然行なって当たり前」という基本的2つの戒め、「主を愛すること」、「隣人を自分自身のように愛すること」を語られた。これは、してもしなくても良いというオプションではなく、「当然行なって当たり前」という必携の戒めなのです。だからそのように教えられたのです。私たちはこのことを本当に重く受け止めなければならない。

引用例:横田滋さんの葬儀の後、6月9日に早紀江さんと二人の息子さんの記者会見があった。その時、ある記者が息子さんに「お父様の長年諦めずに訴え続けた強さの秘訣は何だったと思いますか?」と訊ねると、息子さんは「子供のためなら親は何でもするものです。父は当たり前のことをしたのだと思います。」と答えた。そう、横田滋さんは子であるめぐみさんを愛していたから、めぐみさんのためならどんなことでもすると思っていたのです。愛は相手の最善のためなら何でも行なうというものだから、横田滋さんは長年諦めずに訴え続けたのです。

※神様も私たちを永遠の滅びから救うために、御子であるイエス様を十字架に与えて下さった。それは私たちを御自分の子として愛しているからです。だからいやいやからでもなく、仕方がないからでもなく、当然のように御子であるイエス様を十字架に与えて下さったのです。だとするならば、私たちも当然のように、あたりまえのように主を愛し、また自分の隣人を自分と同じように愛するのは当然ではないだろうか?

【結論】

 愛する兄弟姉妹の皆さん。私たちは先ず神様との関係の中で、イエス様との関係の中で、何があっても神様を、イエス様を第一にして歩んで行こう。神様との関係、イエス様との関係を軽く見るのではなく、神様を、イエス様を心から愛して、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして愛して行こう。そして、次に、自分の隣人を自分と同じように愛して行こう。決して軽く見ることもなく、裁き合うこともなく、自分の隣人を自分と同じように愛して行こう。それは、救われた者として、当然、当たり前のように行わなければならないものだからです。

ガラテヤ5:14~15:「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」

―祈り―

これまでのメッセージ

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