主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書箇所】

ネヘミヤ5:14~19

【タイトル】

「ネヘミヤ記(10)―ネヘミヤの総督としての覚悟―」

【前置】

 前回のメッセージを簡単に振り返る。ネヘミヤはエルサレムに帰還して城壁再建工事に着手したが、その工事に対して、そこに住み着いていたサマリヤ人やアラム人、またアラブ人たちの妨害に会うという問題に遭遇した。しかし、問題はそのような外部からの妨害という問題だけではなく、同胞のユダヤ人のうちからも発生した。それは、一部の裕福なユダヤ人や権力のある者が、貧しいユダヤ人や弱い立場のユダヤ人を搾取しているという問題であり、その問題によって肝心の城壁再建工事がストップせざるを得ないという状況に陥ったからである。ネヘミヤは、そのようなことは良くないことだと訴え、ネヘミヤ自身もいくらかの富を持つ立場にあったが、本来の城壁再建工事に人々が専念できるように、その富を放棄し、裕福な人々に対してもその富を放棄するように訴え、そして人々もそれに応えて実行した。それが先週までのところだった。この場合の富というのは、富に関する権威ということで、具体的には、ユダヤ人たちが同胞の間で貧しさのために貸し借りを行なった際の利子を取るということや、貧しさのために子供を奴隷として売り買いするというような律法に反すること、みこころに反することを止めようということです。

 さて、今日の個所には、それに続いてネヘミヤが城壁再建工事のために行なったことが記されている。何を行なったのか、早速見て行こう。

【本論】

Ⅴ14~Ⅴ15:「また、私がユダの地の総督として任命された時から、すなわち、アルタシャスタ王の第二十年から第三十二年までの十二年間、私も私の親類も、総督としての手当を受けなかった。私の前任の総督たちは民の負担を重くし、民から、パンとぶどう酒のために取り立て、そのうえ、銀四十シェケルを取った。しかも、彼らに仕える若い者たちは民にいばりちらした。しかし、私は神を恐れて、そのようなことはしなかった。」

 エレミヤはどの時点だか聖書にははっきりと明記されていないが、彼は城壁再建工事中のどこかの時点で、アルタシャスタ王からエルサレムを含むユダの地の総督として任命されたようである。彼はペルシャのシュシャンにいる時、アルタシャスタ王の命を預かる大切な役割の献酌官を勤めていたので、彼は王から高い信任を得ていて、そのため、彼はこの地をアルタシャスタ王に代わって治める総督として任命されたのです。そしてその間、総督としての手当て、報酬を得なかったとある。日本で言うならば、各都道府県の知事の職に当たるわけだから、そこそこの報酬であったはずだが、どうして受けなかったのかというと、前任の総督は立場を利用して、人々への負担を重くし、「パンとぶどう酒のために取り立て」つまり、自分たちの生活のための毎日食べる飲食物も提供させ、それだけではなく、名目ははっきり分からないが、「銀四十シェケルを取った。」とある。これは、毎日の食べ物と関連して、毎日40シェケル取ったと注解書にはあったが、1シェケルというのは、現在でもイスラエルで使われている通貨単位で、日本円に換算すると約30円。だから、現在の換算率で言うならば1,200円ということになり、当時の価値で言うならば、きっとそれよりももっと大きな価値ではないかと思うが、いずれにしても、前任の総督たちは地位を利用して私腹を肥やしていた。また彼らに仕えていた若い者たちも同じように「民にいばりちらした」、つまり、同じようなことをしていたというのである。

 ところが、ネヘミヤはそうではなかった。彼はそれまでの総督たちと同じように、立場と共に、そこそこの富もあった。人にお金や穀物を貸して上げるだけの豊かさがあった。だから、前任の総督たちと同じように、うまくやればもっと富も蓄積できたはずなのだか、どうしてしなかったのだろう?それだけではなく、報酬さえも受けようとしなかったのだろうか?それは、「私は神を恐れて、そのようなことはしなかった。」(Ⅴ15)とあるように、神を恐れていたからです。彼は前の個所で、人々が同胞の困窮している人々に対して利子を取ってお金を貸したり穀物を貸したりしているのを知った時も、彼はこう言って、それを止めようと言った。

ネヘミヤ5:9~10:「私は言い続けた。『あなたがたのしていることは良くない。あなたがたは、私たちの敵である異邦人のそしりを受けないために、私たちの神を恐れながら歩むべきではないか。私も、私の親類の者も、私に仕える若い者たちも、彼らに金や穀物を貸してやったが、私たちはその負債を帳消しにしよう。』」

※彼の行動の原則には、「神への恐れ」=「神を神とし、神を第一にして、神に従う」という原則があった。彼はこの原則を心に定めて、総督の仕事をした。これは彼の総督としての覚悟です。

※私たちは何を行動の原則としているだろう。私たちは何を心に定めて、何を覚悟に生きているだろう。箴言には、「【主】を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:7a)とあるが、私たちはそのように、神を信じる信仰者としては、神を恐れて、神を第一にして生きて行かなければならない。それが私たちの行動規範であり、覚悟です。

 エレミヤはまた、この神への恐れのために、ただ総督としての報酬を受けなかっただけではなく、「また、私はこの城壁の工事に専念し、私たちは農地を買わなかった。」(Ⅴ16a)とあるように、「城壁再建工事に専念するために、農地を買うまい。」と決めたのです。覚悟したのです。農地を買えば、当然その農地を世話する人が必要になるし、そっちの方に関心が向く。しかしネヘミヤには、「私はこの城壁の工事に専念し」とあるように、城壁再建を早く成し遂げなければならないという使命があったから、農地など買っている場合ではなかったし、すべての人を動員して城壁を少しでも早く再建させることが彼の使命だったからです。

Ⅱテモテ2:4:「兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。」

ローマ14:7~8:「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」

 先ほどの私たちの行動原則、覚悟と関連するが、私たちは今この世に生きているが、神様との関係においては私たちはもはやこの世のものではない。主によって贖われる前までは、私たちはこの世を私たちの主人にしていたが、主イエス様の尊い代価によって贖われた今は、私たちの主人は主イエスキリスト、神様です。私たちは何をするにも、神様のために生きて働くのです。

Ⅰコリント6:20:「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」

次にネヘミヤは、神への恐れと人々への思いやりのゆえに、人々への思いやり=これも彼にとっての行動規範だったが、食生活においても自分の立場や権利を用いて贅沢三昧をすることなく、どの程度か分からないが質素な暮らしをしようと覚悟したのです。

Ⅴ17~Ⅴ18:「ユダヤ人の代表者たち百五十人と、私たちの回りの国々から来る者が、私の食卓についていた。それで、一日に牛一頭、えり抜きの羊六頭が料理され、私のためには鶏が料理された。それに、十日ごとに、あらゆる種類のぶどう酒をたくさん用意した。それでも私は、この民に重い労役がかかっていたので、総督としての手当を要求しなかった。」

 総督と言う立場上、他の地域の総督や高い地位にある人たち、また周辺の外国の国からもいろいろな人が訪問してきただろう。国賓として訪れる人もいただろう。そうなれば当然、豪華な宴会が催されて、贅沢な食事が振舞われるだろう。しかし、そんな時でもネヘミヤは、質素な食事で済ませたのである。「わたしのためには鶏が料理された。」、「それでも私は、この民に重い労役がかかっていたので、総督としての手当を要求しなかった。」(Ⅴ18)とあるように。

※高い地位や権力の座に座ると人は誘惑に弱いものです。しかし、高い地位や権力の座に座らなくても、人は、自分はあの人とは違うのだという特権意識や選民意識を持つと、人に対する見方、接し方に歪(ひずみ)、歪(ゆが)みが生じる。所謂、先入観とか偏見というものです。この偏見が人間関係を壊し、社会を混乱に至らせる。ヘイトクライムや人種差別などはその典型例です。

 ネヘミヤはそのような偏見も持たずに、すべての人に公平に、憐れみを持って接したのです。それが彼の総督としての行動原則、覚悟でした。

※私たちもそのような行動原則、覚悟を持って生きて行きたい。聖書にはそのような生き方を勧めるたくさんの言葉があるが、次のみことばに目を留めよう。これは、今は引退されたが、鳩山のニューライフチャペルの牧師をしておられた西沢先生の座右の銘です。

箴言30:7~9:「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「【主】とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」

 この人は、決して富や権力を否定しているわけではない。しかし、人は富と権力を持つと、それに溺れやすいものです。つまり、自分の姿が見えなくなりやすいものです。この人はそれを知っているので、それを嫌ったのです。

※私たちもそうありたいと思う。それが私たちの主であるイエスキリストの生き方、行動原則、覚悟でもあるから。

◎そして最後に、だからネヘミヤは神に祈った。人にではなく、この覚悟を持って生きている間のすべてをご覧になっておられた、そして今もご覧になっておられる神にのみより頼んで。

Ⅴ19:「私の神。どうか私がこの民のためにしたすべてのことを覚えて、私をいつくしんでください。」

これが神を神とする者の姿です。

―祈り―

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