主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書箇所】

Ⅱペテロ3:11:「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだ

とすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」

【タイトル】

「聖い生き方をする敬虔な人(9)―幸いなるかな、敬虔な人―」

【序論】

 今日もまた、このみことばから始めて行く。このみことばの伝えるメッセージは極めて明確で、前回も言ったが、この世のすべてのものは、世の終わりが来ると、どんなものでも焼け溶けて崩れ去り、消え去ってまう。だから、そのようなものを頼りとしないで、神様がくださった聖さ、神の子とされたこと、つまり敬虔さを大切にして、ますますそのようにして生きて行こうではありませんか、と教えているみことばです。それも、「どれほど…。」とあるようよおうに敬虔な人であってほしいという神様の願い、思いが伝わって来るみことばです。そうではないだろうか?

さて、今日はそういう意味で、前回も引用したが、マタイの福音書5章~7章にある山上の垂訓の箇所から、イエス様が相反する二つの事物、それは神の国とこの世の違い、或いは神の国に生きる者とこの世に生きる物との違いを示しているわけだが、その対比を通して神の国に生きることの大切さ、聖い生き方をする敬虔な者であることの大切さを学んで行きたいと思う。今日はその山上の垂訓の中の5章3節~16節のところに出て来る「8福の教え」のところからです。

【本論】

マタイ5:3~16:「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

 さて、この個所のどこに、相反する二つの事物があるだろうか?―それは、「塩気を保つ塩」と「塩気を失った塩」、「光を保ち、光を放つ世界の光」と「光を失い、或いは光を隠しているために、光を放つことの出来ない世界の光」です。そして、ここでの塩気や光が、私たちにとっての敬虔さ、神の性質、神の子としての姿なのです。聖書は、私たちが地の塩として塩気を失わずに塩気を放ち、また、世界の光として世界に光を放つとき、私たちは役に立つ者として存在することが出来るが、地の塩として塩気を失い、世界の光として光を失うならば、隠すならば、即ち、聖い生き方をする敬虔さ、神様の性質、神の子としての姿を失うならば、私たちはもう何の役にも立たず、外に捨てられ、人々に踏みつけられるだけになってしまうという。「何のために存在しているのか、何のために生きているのか」ということになってしまうというのです。

 では、そうならないためにはどうしたらよいか?―それが教えられているのが、Ⅴ3~Ⅴ10の「八福の教え」です。八福の教えでは、「・・・の者は幸いです。何故なら、その人は・・・だからです。」と、8つの心の状態の人を取り上げ、そして、「その人は幸いです。」と教えられている。この「幸いです。」というのは、原語では、最初に「幸いなるかな。(マカリオイ)・・・の人は!」で、その「・・・」の心の状態の人が幸いだと言う。例えば、Ⅴ3:「幸いなるかな。心の貧しい人は。天の御国はその人の、ものだからです。」、Ⅴ4:「幸いなるかな。悲しむ者は。その人は慰められるからです。」と言う風にである。だから、そういう人であれば、地の塩、世界の光として、塩気を保ち、光を保つ、即ち、敬虔さを失わず、保つ者であり続けるというのです。

 今日はその一つ一つについては触れないが、ここで重要なことは、これらの8つの「幸いなるかな、・・・。」と言われている心の状態は、しばしば間違って教えられるが、所謂、Social Gospel、社会的福音、つまり善行を奨める教えとか、倫理道徳についての教えではないということ。これは、神様との関係において、神の子とされた者、神の性質をもって生きる者、聖い生き方をする敬虔な者とされた者が、何をするかというよりも、「どう生きて行かなければならないか、どうあらねばならないか」という心の状態、姿を教えているものであるということです。何故なら、山上の説教は、「神の国の民とされた者が神の国に生きる者として、どのように生きなければならないのか、どのような者でなければならないのか」ということを教えているところだからです。そしてここには、二つの心の状態が語られている。

 一つは内面的な心の状態。例えば、「心の貧しい」、「悲しむ」、「柔和な」、「義に飢え渇いている」というのは、内面的な心の状態です。共通して、「空っぽ」、「何もない」、「もうだめだ」、だから「飢え渇いている」という心の状態のことです。今年の夏は長梅雨だった。ようやく先週から梅雨明けになって本格的な夏になったが、それまではいつも雨が降っていた。私の家では、私の部屋は1階にあり、部屋の外には小さな庭があるのだが、今年は毎朝ガラス戸を開ける度に、庭は雨のためにぐちゃぐちゃになっていた。しかし今は空っからに渇いていて、罅が割れているほど。雨が欲しいなと訴えているかのような状態。それが「心の貧しい、悲しむ、柔和な、義に飢え渇いている」という心の状態のこと。

 そして、もう一つの心の状態というのは、その空っぽな心が満たされた結果生まれる、外面的な、つまり外側に現れる、態度、言葉、行動として現れる心の状態のことです。「憐れみ深い」、「心のきよい」、「平和をつくる」、「義のために迫害される」というのは、それらは皆、外に向かって現れる能動的な心の状態、態度です。例えば、「憐れみ深い」は、ただ優しい、憐れみ深いということではなく、人に対して能動的に憐れみの心を持って接する、行動するということ、また、「心のきよい」は、ただ心がきよいというということではなく、神に対して純粋な心を持っているということであって、その結果、神だけを求めるという能動的な心の状態、姿である。「平和を作る」もそうです。神との関係において、罪の赦し、和解、平和が与えられたので、人との関係においても平和を能動的に作り出して行こうとする心の状態のこと。そして、「義のために迫害される」もそうです。「出る杭は打たれる」というけれど、私たちはこの世で、この社会で、神との関係、神の国とその義を第一にして、自分たちの信仰を証ししようとして生きて行くと、その信仰のゆえに、また、そうしようと思わなくても目立つことをすると、人々から煙たがれたり、嫌がられたりする。私たちはそのように、この世ではしばしば迫害されたり、疎(うとん)じられたりするのです。でも聖書は、「そういう者は幸いです。」と言う。何故なら、そういう者は神様との関係において、「天の御国はその人のものだからです。」、「その人は慰められるからです。」、「地を相続するからです。」、「満ち足りるからです。」、「あわれみを受けるからです。」、「神を見るからです。」、「神の子どもと呼ばれるからです。」、「天の御国はその人のものだからです。」ひとことで言うなら、「天においてあなたがたの報いは大きいのだから」(Ⅴ12)です。

※私たちの信仰生活のポイントはここにある。重要なのは、神との関係において私たちはどうであるかということ。私たちの心はどうであるかということです。

ルカ18:9~14:「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

 これが、神様との関係において、敬虔な者の姿です。「何かが出来るから立派だ。」ということではない。「これだけのことをしているからこうなんだ。」ということでもない。むしろ、「私は何もできません。でも私はあなたの前で飢え渇いています。あなたが必要です。」と言って、神の国(力と支配)と義を求める人が神様から報いが与えられ、そして満たされて、能動的に、行動的に生きることが出来るのです。だから、そういう人が幸いなのです。「幸いなるかな。」で、もう一つの聖書箇所。

詩篇1:1~3:「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」

 悪から離れ、神様に、「主の教え」=みことばに親しみ、「水路のそば」=みことば、聖霊様に親しむなら、「その人は、何をしても栄える。」と言う。水路の水分が、私たちの敬虔さであり、地の塩としての塩気であり、世界の光としての光、明かりです。しかし、

Ⅴ4~Ⅴ6:「悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。まことに、【主】は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。」

 イエス様は言われた。

マタイ7:21~23:「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」

※大切なことは、神との関係において、私たちが何をするかということではなく、どういう者であるかということです。自分の行ないや実績やパフォーマンスに頼るのではなく、神様御自身に頼って、神様を求めて行くことです。水路のそばに植えられた、渇き切った木のように、水を、塩気を、光を求めて行くことです。

その結果、神様が私たちと共にいて下さって、私たちを通して働いてくださるということなのです。

【結論】

 だから、もう一度このみことばをよく考えよう。

マタイ5:13~16:「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

※主を求めて行こう。慕い求めて行こう。

―祈り―

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