主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書箇所】

ヨハネ14:6:「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」

【タイトル】

「いのちなるイエス様に」

【序論】

 このみことばは、前々回の「道なるイエス様に仕える道」の時にお伝えしたように、「イエス様を信じれば救われます。」という、伝道のために語られるみことばでもあるが、それだけではなく、このみことばは、「いのちなるイエス様に仕える道」というタイトルが示すように、何を信じ、何のために生きているのか、私たちの信仰生活、生き方そのものを示すみことばでもある。

 初代教会のクリスチャンたちは、「この道の者」と呼ばれた。

使徒9:2:「ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。」

使徒22:4:「私はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです。」

 どちらも、パウロがまだサウロと呼ばれていた頃にクリスチャンたちを迫害していた時のことを記したみことばだが、そこにはっきりと、当時のクリスチャンたちは「この道の者」と呼ばれていたことが分かる。どうして「この道の者」と呼ばれていたのか、それは彼らの生き方の中に、彼らが何を信じ、何を第一にして生きているのかという、彼らの信仰そのものが明確に現わされていたからです。勿論、「この道」とは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と言われたイエス様であり、イエス様の生き方です。彼らは当時、使徒を通して教えられていたイエス様の教えに忠実に従って生きていたので、誰が見ても、彼らにははっきりとイエス様に従って生きる姿が見えたのです。だから彼らは「この道の者」と呼ばれたのです。

 このことは今日も変わらない。否、変わってはならない。私たちは今日も、初代教会の人たちと変わることなく、人々から「この道の者」と言われるくらい、私たちの信仰生活の歩みがどのようなものであるのかを明確に現わして生きて行かなければならないのです。今日はそういう意味で、「わたしが道であり、真理であり、」特に、「いのちなのです。」と言われたイエス様の、その「いのちなるイエス様」とはどういう道かについてメッセージを取り次いで行きたい。

【本論】

 先ず、「いのちなるイエス様」とは、私たちにとって、

(1)「イエス様との関係、絆を示すもの、関係、絆そのもの」です。

 イエス様はこう言われた。「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と。「通してでなければ」というのは、イエス様御自身との関係、絆、結びつきを示す言葉です。イエス様は前の章の13章で、過越しの祭りの前の晩の夕食の席で弟子たちの足を洗われた時、ペテロの「決して私の足をお洗いにならないでください。」と言う言葉に対して、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」(Ⅴ8)と言われた。

※そうです。私たちはイエス様を信じる者として、イエス様との関係、イエス様との絆は何よりも重要なのです。そうでなければ、私たちはイエス様がおっしゃるように、「父のみもとに来ること」はないからです。「父のみもと」というのは、そこに父なる神様がいるだけでなく、Ⅴ10:「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。」とあるように、御子なるイエス様もおられるところだからです。何故なら、神様は三位一体なる神様ですから、父なる神様のおられるところにはイエス様もおられるからです。

※私たちはイエス様を信じる信仰を通して、イエス様とともにいるのです。イエス様との関係が、絆が結ばれているのです。主がぶどうの木で、私たちがその枝であるように、そのように私たちは「いのちなるイエス様」と関係しています。絆として結び合わされています。

 次に、「いのちなるイエス様」は私たちにとって、

(2)私たちのいのちそのものです。

 胸に手を当ててみよう。何を感じるか?―そう、脈動する心臓の存在を知る。私たちはこの心臓がなければ生きていけない。この心臓がなければ、私たちは死んだも同然です。同じように、イエス様も私たちにとって「いのち」そのものです。イエス様を信じて救われて、神の子として生まれた私たちにとり、イエス様はこの心臓のようになくてはならない「いのち」そのものです。

 新約聖書ではいのちを現わす言葉に、「ゾーエー」、「ビオス」、「プシュケー」という三つの言葉があるが、「ゾーエー」というのは、イエス様を信じた結果与えられる「永遠のいのち、復活のいのち、霊的いのち」を指し示す言葉であり、このヨハネ14:6で使われているものです。他の二つは、人間の体の生命、個人個人に与えられている命という時に使われる言葉です。例えば、

ヨハネ10:10~11:「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」

 最初のⅤ10の「羊がいのちを得」の「いのち」は「ゾーエー」で、あとのⅤ11の「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」の「いのち」は「プシュケー」です。

※イエス様は私たちを救い、私たちに「永遠のいのち=ゾーエー」を与えるために、人の子として生まれて与えられた「いのち=プシュケー」を十字架の上で捨てて下さったのです。それによって私たちに「いのちなるイエス様」の「いのち」が与えられました。パウロはそのことをこう言っている。

ガラテヤ2:20:「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリスト(いのちなるイエス様)が私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子(いのちなるイエス・キリスト)を信じる信仰によっているのです。」と。

※私たちのうちにはこのいのちなるイエス様が生きておられます。だから毎日、心臓に手を置いて生きているのを実感するように、私の中におられるイエス様を実感して、生きて行こう。

◎具体的にはどのように?

①みことばによってです。それも聖霊の息吹きによって語られる神の言葉レーマによってです。

ヨハネ6:63:「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことば(レーマ)は、霊であり、またいのちです。」

 日々の御霊によるみことばとの交わりが、レーマとなってあなたに直接語り掛けられる。それがレーマです。そのレーマが私たちにいのちを与えるのです。書かれた文字はいのちを与えません。むしろ殺します。

Ⅱコリント3:6:「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」

 だから、聖書を読んで、日々いのちの言葉、神の言葉であるレーマをいただいて行こう。

②祈りによって。それも御霊に導かれる祈りによってです。

ローマ8:26~27:「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」

 私たちはしばしば、何をどう祈ったらよいか分からない時がある。その時は、聖霊なる神様に導いていただくのである。御霊が何を祈ったらよいか完全に知っているからである。

エペソ6:18:「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」

※御霊に導かれて祈ろう!異言によってでも祈ろう!

 最後に、私たちにとって「いのちなるイエス様」は、

(3)私たちを、御自身の「いのちと御霊の原理=力」によって、「罪と死の力」から救う、解放する神の力です。

ローマ8:1~2:「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」

 イエス様は、イエス様御自身がこの地上に来た目的をこのように言っている。

ヨハネ10:10:「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」

 これは牧歌的なのどかな風景を思い浮かべるが、そうではない。これは、私たちの生きている現実的な世界のこと、信仰生活のことを言っている。「盗人」はサタンとサタンによる闇の力、勢力です。私たちはサタンによって罪と死の原理=力に支配されるものになった。それは、ローマ7章のパウロの絶望的な告白を読めば分かる。どんなに長い信仰生活を送っていても、私たちはこの世に生きている限り、このような、盗み、殺し、滅ぼす力を受けている。しかしイエス・キリストは、そのような中にいる私たちを完全に救うためにこの世に来て下さり、カルバリの丘の上で贖いのみわざを為して下さった。だから私たちは、キリスト・イエスの中にある限り、決して罪に、また死に定められることはないのです。ハレルヤ!

【結論】

 今日、あなたはイエス様とどのような関係にあるだろうか?

①イエス様と信仰の絆によって結び合わされているだろうか?

②イエス様から流れて来る「いのちなるイエス様」のいのちによって生きているだろうか?―日々

のみことば・レーマとの交わり、そして御霊による祈りによって生きているだろうか?

③「いのちと御霊の力」によって、罪と死の原理に勝利して生きているだろうか?

―祈り―

これまでのメッセージ

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