2021年 1月 3日(日) 新年礼拝メッセージ:金子辰己雄師 

【聖書箇所】

黙示録21:1~5:


​【タイトル】

「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」

【本論】

 昨年は、コロナで始まりコロナで終わる一年だった。それに加え、教会には別の問題も起こって心揺らぐ一年だった。現実を見るなら、未だどちらも解決せずに新しい年を迎えていて、これから私たちはどうなるのかと誰もが思われるが、昨年末の役員会報告にあったように、だからこそ私たちは今、原点に帰らなければならないのではないかと思わされている。何故なら、「人は道に迷ったら、始めに戻れ」と言われているからである。私たちにとっては、それは「何故私たちはここにいるのか?」、「何故私たちは教会としてここに置かれているのか?」という教会の原点であり、存在する目的、存在する理由です。それが分かれば、もう一度そこから迷わずにゴールに向かって進むことが出来る。ゴールのない出発点、スタート地点はないからです。​

 昨日から箱根駅伝が始まった。ランナーたちは大手町の読売新聞社前をスタート地点にして、箱根のゴールを目指して走った。今朝は、そのゴール地点をスタートラインにして、大手町のゴールを目指して走っている。そのように、人がスタートラインに立つのはゴールがあるからであり、ゴールがなければスタートラインに立つ意味がない。それと同じように、教会がここにあるのも、また私たちが救われてここにいるのにも意味があり、ゴールがあるからです。それも、私たち自ら考え出した原点ではなく、神が教会に対して持っている原点です。何故なら、私たちは自ら選んで教会になったわけではないからです。それは、神がしてくださったことです。​

ヨハネ1:12~13:「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」また、​

ヨハネ15:16b:「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」とある通り。​

※だとしたら、私たちのゴール、教会のゴールは何だろうか?―それが今年の年間テーマである「神がすべてを新しくされる。」ということです。神が私たちを救われたのは、また私たちを救って教会として下さったのは、神がすべてを新しくされるからです。​

 昨年私たちは、「聖い生き方をする敬虔な人」であることの大切さを学んだ。でなければこの天地が滅びる時、共に滅んでしまうからです。神は最後にはこの罪に満ちた天地を必ず滅ぼされる。神は罪をいつまでも見逃すことがないからです。そして、罪のない新しい天地を造られる。それが救いというものです。救いというのは、病気を癒したり傷口を治すこととは違う。救いというのは、病気になる不完全な体、傷がつく罪の体を滅ぼし、病気になることのない完全な体、傷つくことのない完全な体を新たに造ること。パウロが、「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:19~20)と言ったのは、そのことです。そしてそのゴールが、「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』」(黙21:1~4)と言われている新天新地なのであり、新しいエルサレム、キリストの花嫁としての私たち、教会なのです。それが神のゴールです。​

※私たちは救われてそのスタートラインに立ち、今そこに向かって進んでいる。神がそのようにして下さったのです。私たちはそのことを忘れてはならない。私たちは決してゴールから目を離してはならないのです。それが、「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」と言う短い一言の中に凝縮している。​

 ここでの「新しくする。」の「新しい」という言葉は、(ギ)「カイノス」という言葉で、それは時間的な新しいという「ネオス」とは違い、「まだ使っていない、今までになかった」という質的な新しさを意味する言葉です。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)の「新しく」というのと同じです。神はこのように私たちを救い、全く新しくされたものとして下さるのです。そしてもう一つ、この個所で需要な言葉がある。それは、「見よ。」と言う言葉である。​

 新約聖書には、「見よ」という言葉が245回出て来る。その内、ここと同じ意味で出て来るのが184回である。その意味は、「目で見る」という意味の「見よ」ではなく、「信仰の目で見よ」という信仰の喚起、注意を呼び起こすための「見よ」である。これが重要です。つまり、聖書は私たちに「見よ」と、私たちの行なうべきこと、従うべきことを語っている。そして、神は私たちに対する計画、ゴールを持っているが、もし私たちが「見る」ことをしなければ、つまり、それが分かって従うことをしなければ、どんなに神に計画、ゴールがあっても、それは為し得ないのです。​

 あるメッセンジャーがこう言った。神はいつも私たちに語り掛けている。問題は私たちがその神の声に耳を傾けているかどうかだと。それだけではなく、聞いて従っているかどうかだと。それは聖書を読むことにも通用する。私たちは聖書を読む時、それをただ文字として読むだけではなく、神の言葉として読まなければならない。神が自分に語っている神の言葉として読まなければならないのです。そして、従わなければならないのです。今年一年、聖書通読の計画、ディボーションの計画を持っている人がいると思う。どうかそのように読むことが出来るように、どうかそのように聞くことが出来るように。そして、聞くだけではなく、従うことが出来るようにと願う。みことばはイエス様御自身であり、みことばに聞き従い、みことばを実行する時、言い換えるなら、みことばに生きる時、イエス様を知り、イエス様について行き、従って行くことになる。イエス様は「わたしに付いて来なさい。」と言われた。だから、イエス様に、みことばに従う者がイエス様のものであり、真のクリスチャンなのです。

ヤコブ1:22~25:「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」​

※私たちは今年一年、この神の最終的な私たちに対するゴール実現のために、また私たちが最終的にこのゴールに達することが出来るように、神の「私たちを、そしてすべてを新しくする」と言われる神のゴール、計画、みこころについて学び、学ぶだけでなく、それを実行して行こう。私たちは聞くだけではなく、学ぶだけではなく、実行しなければならないからです。​

【結論】

 今日は、今年の年間テーマの第一日目として、神が私たちに持っている計画、ゴールについて語った。それは「わたしは、すべてを新しくする。」というゴール、計画であるということ。次に、その計画に私たちが預かるために重要な「見よ」ということについて語った。次回以降は、さらにこの神の計画、ゴールが、この2021年に成し遂げられるように、そのために私たちにしなければならないこととして求められていることを聖書からさらに見て行こう。​

―祈り―

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