2021年 1月10日(日) 主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書箇所】

イザヤ60:1~3:

​【タイトル】

「起きよ。光を放て。」

【序論】

 イザヤ書56~66章は、バビロン捕囚解放後のイスラエルの民に対する終末の回復の預言です。バビロンから救われ、ゴールとして神様はイスラエルの民をどのような姿に変えて下さるのか、それはまた、今日

の世に生きる私たちに対しての預言、ゴールとしての姿を教えてくれるところでもある。先週学んだように、その時が来ると、私たちはゴールである新しいエルサレムの姿に変えられ、神の栄光を反映させて永遠に生きるということを預言しているところです。だからこの預言は、私たちの救いが達成した時の、また、達成に至るための預言であると言える。

 何故、「達成した時の」というのと「達成に至るための」という二つのことを言うのかというと、そこには私たちの救いに、完成したという過去の出来事という意味と、救われつつあるという現在進行形の出来事という二つのことがあるからです。Ⅱコリント5:17のみことば、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」にはその二つのことがある。「古いものは過ぎ去り」は一度限りの過去のこと、「すべてが新しくなりました。」は現在進行形の救われつつあるということです。そして今日の個所でも、未来のことではあるがその二つのことが語られている。今はこうだけれども、その時、救いの完成の時が来るなら、完全に完了したものとしてこうなるというメッセージなのです。では、どういうことなのか、今日のみことばを見てみよう。

【本論】

 主は「起きよ。光を放て。」と言う。これは今日のメッセージテーマになっているように、この個所での重要な命令の預言です。この命令の言葉を実行するなら、この後の2節、3節の神の預言の言葉が、また60章すべての神の預言が成就するというほど、重要な神の言葉なのです。では、「どういう状態から起きて、どういう光を放て。」と言っているのだろうか!―この個所を抄訳聖書で見ると、「あなたを制している抑鬱と衰弱から、新しいいのちに満たされて起きよ。そして、主の栄光を反映させながら輝け。」となっている。この預言の言葉は、バビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還し、神殿と町が回復した後のイスラエルの民に対して語られた言葉です。

 当時のイスラエル人は、捕囚以前のような偶像礼拝(カナンの地に古くからあったバアルやアシュタロテの偶像を造り、それを拝むというような分かりやすい形での偶像礼拝をするようなことはもうなく、それらの偶像礼拝からは完全に離れていた。また捕囚以前のように、アッシリヤやアラムやエジプトと言った強国、隣国に挟まれている中で、戦争など自国の身が危うくなるような事が起きた時に、神に頼ることなく、その都度に、時にはアッシリヤ、時にはアラム、またエジプトにというように、神にではなく人に助けを求めるというような偶像礼拝からも離れていた。この「離れる」というヘブル語の言葉、パールーシュから、この時代の後期に現れて来るパリサイ派と呼ばれる人たちが誕生したのだが、その彼らの信仰が当時の霊的状態をうまく表していて、そのような霊的状態だったから、この預言の言葉が語られたのである。彼らの霊的状態は、律法には熱心だけれども、その信仰は形式的で、その信仰にはいのちがなく、霊的に死んだ、霊的暗闇の深い状態だった。だからイエス様はパリサイ人を指して、こう言った。「わざわいだ。(忌まわしいものだ。)偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」(マタイ23:27~28)と。当時のイスラエルの民の状態も、正にこのような状態だったので、だからイザヤは預言して、抄訳聖書が言うように、「あなたを制している抑鬱と衰弱、弱っている状態=つまり、霊的暗黒の状態から、新しいいのちに満たされて起き上がりなさい。そして、主の栄光を反映させながら輝きなさい。」と命じたのです。

 何故、霊的に死んだ状態の人々に対してそのように命じたのか?―抄訳聖書を見ると、理由が明らかにされている。抄訳聖書では、「起きよ。光を放て。」の後に、理由を示す次の(というのは)という言葉が続いている。「(というのは)あなたの光が来て、【主】の栄光があなたの上に輝いているからだ。」と。そしてこの言葉は、初めに救いには二つのことがあると触れたが、その一つ目の完了をしめす時制で書かれている言葉なのです。つまり、これはもう既に完了したこととして、「あなたの光はもう来て、そして、【主】の栄光があなたの上にもう輝いているからだ。だから、起きて、光を放て。」と、過去の完了した出来事に基づいて行えということなのです。聖書はこう言う。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(ヨハネ1:1~4)と。私たちには、もともと神によって造られたものとしていのちがあり、光があった。しかし罪のためにそれを失ったが、イエス様が来て下さり、贖いのみわざによってそれを私たちに回復して下さった。だから、「起きよ。光を放て。」と言うのである。

 そして続けてイザヤは、「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には【主】が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」(ヨハネ1:1~4)という。ここにも「理由」を示す「というのは」と言う言葉が頭にある。「(というのは、)見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には【主】が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」

 ここでの預言の言葉は、先ほどの完了ではなく、現在進行形の時制で書かれ、将来実現することがらとして書かれている。「(というのは)、今が、見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている状態になっているので、(あなたが起きて、光を放つならば、)あなたの上には【主】が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩むようになって行く。そして、救いが完成する。回復が完成する。」という風にです。このところで預言されている回復の姿は、黙示録で描かれている私たちが迎える回復の姿そのものです。例えば、「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」、「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示21:1、4)や、「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」(黙示21:23)です。

 私たちが生きている、この終わりの時の今も、この時の霊的状態と変わることなく、「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。」時です。だからこそ私たちは今、「起きて。光を放たなければならない。」のです。「私たちを制している抑鬱と衰弱、弱っている状態から、新しいいのちに満たされて起き上がり、そして、主の栄光を反映させながら輝かなければならない。」のです。

【結論】

※ところがです。聖書はこのように至る所で預言者を通して人々の目を覚ますように言うのだが、人はいつの間に光を失い、いのちを失い、霊的に死んでしまうのです。聖書はそのような私たちの姿をあるがまま描いている。典型的なのが士師記。繰り返し民は神に立ち返るが、すぐに忘れて、この士師記の結論的聖句である、「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」(士師記21:25)のように、自己中心の古い性質に戻ってしまうのです。それが私たちの性質です。

 私たちの家族は10月末に三陸地方を車で巡った。宮古の北の北山崎という所から国道45号線を通り、気仙沼まで走った。海岸線はまったく変わっていた。当たり前だったものがそうではなくなり、全く新しい風景にとって代わってしまっていた。今回のコロナによっても、当たり前であったものがそうではなくなり、新しい生き方にとって代わりつつある。しかし今はどうだろう?―その新しい生き方も、もう新しい生き方ではなくなってしまいつつあるのではないだろうか。人はすぐに新しいものがそうではないものになり、慣れてしまうのです。私たちは10年前、あれ程の経験をしたのに、もうあの時の心が敷き締められる思いはなくなってしまった。人はそのようにすぐに忘れるのである。

 イスラエルの民もそうだった。士師記の中でも、捕囚解放後の時も、初めのうちは苦しみの中にあった時のことを覚え、解放された時の喜びも忘れることなく生活していたが、次第に忘れて、自分たちはどのような者であったのか、どうして今ここに居るのか、これからどこに向かって行かなければならない者であるのかという、私たちの原点とゴールを忘れ、世の流れ流されてしまいやすい者なのです。だから神は、「起きよ。光を放て。」と言われるのです。それは、先ず、私たちはそういう者にされているからです。そして、これからもそういう者であり続けるからです。だから、今日、もう一度覚えよう!―私たちの原点を思い出し、悔い改めて、もう一度私たちの光を輝かそう。悔い改めて、神に祈ろう!

―祈り―


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