2021年1月24日(日) 主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書箇所】

マタイ3:1~12

​【タイトル】

「終わりの時代の聖霊と火とのバプテスマ」

【導入】

 コロナの状況は依然として厳しい状況にあり、変異ウィルスも生まれてより感染しやすくなった。私たちはこのような状況、大変な時をどう見たらよいだろうか?―ダビデは、彼の生涯でさまざまな苦しみ、試練

に遭った。そんな中で彼はこんな言葉を残している。​

詩篇119:71:「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」​

 「おきて」とは、直接的には「戒め」、また「教え」のことだが、ここでは、そこに示されている神様の御心のことです。ダビデはここで、「私は苦しみにあったけれども、それで私はあなたの御心を知った。だから私は幸せです。」と言っている。私たちは今日のこのような状況にあって、このように言えるだろうか?―今日はそのようなことを考えながら、私たちの人生には苦しみや試練があるが、その苦しみ、試練の意味を考えながら今日のメッセージを取り次いで行きたい。

【本論】

 バプテスマのヨハネはイエス様の公生涯の最初のメッセージのように、天の御国が近づいたから、つまり、終わりの時代の審判の時が近づいたから「悔い改めなさい。」と語った。これは、今日の私たちにとっても非常に重要なメッセージである。「悔い改め」というのは、以前語ったように、「メタノイア」(メタ=変える、ノイア=思い、考え)=「思いを変える」ということ。ヨハネはそのことを語りながら、人々に水のバプテスマを授けていた。ところがそこにパリサイ人やサドカイ人が大勢バプテスマを受けに来たので、ヨハネは彼らにこう言ったのです。​

Ⅴ7b~Ⅴ12:「『まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。』」​

 「悔い改めにふさわしい実」とは、思いや考えを変えた結果、生き方の上に現れる行ないの実です。またそれは御霊の実と言ってもよい。御霊の実というのは、私たちが悔い改めてイエス様を信じた結果、私たちが語る言葉の中に、私たちが行なう行ないの中に、御霊が結ばせて下さる実です。「愛、喜び、平安、...。」みな、そうです。昨日のTVライフラインで、ゲストの森祐理さんは、「歌いつつ歩まん」の賛美は自分の人生のテーマソングだと言い、出だしの「主にすがる我に悩みはなし」について話された。「主を信じたら、何があっても悩まない」ことだと。そうです!もし悩んでいるならそれは言動一致しないので、悔い改めの実を結んでいるとは言えないから、イエス様からこう言われるだろう。「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」と。​

 この時イエス様がパリサイ人やサドカイ人に、「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(Ⅴ8)と言われたのも、彼らは悔い改めに相応しい実を結んでいなかったからです。彼らにとっての悔い改めに相応しい実とは、「『まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。」(Ⅴ7)と言っているように、彼らには聖書(旧約聖書)を通して、終わりの時代には、「神のみ怒り」つまり、「終わの日の裁き」が必ず来ることが教えられていたのに、それに対する備え、相応しい生き方をしていなかったからです。では、その「終わりの日の裁き」とは?―それは、「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」(Ⅴ10)にある、「良い実」=「悔い改めに相応しい実」を結ばない者はみな、火に投げ込まれると言う裁きです。この裁きは、「殻を消えない火で焼き尽くされます。」(Ⅴ12)とあるように、イエス様が再臨された後に行なわれる裁きで、その時、誰でも悔い改めに相応しい実を結んでいない者は、永遠に消えることのない火と硫黄の燃える池に投げ込まれることになるというのです。(参照:黙示20:10、14~15)しかしそれは同時に、悔い改めの実を結んで救われている者にとっては、それは救いの完成の時であり、それを聖書では、「終わりの日の収穫」と言う。そのことをイエス様は、天の御国の譬え話の中で語られている。

マタイ13:24~30:「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」​

 ここに、良い麦と毒麦の譬えが語られているが、これは終わりの時の収穫のことだと、この後のイエス様が解き明かしの中で語っている。

マタイ13:36~43:「それから、イエスは群衆と別れて家に入られた。すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください。」と言った。イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。」​

 裁きと救いの完成というのはコインの裏表なのです。それが、Ⅴ12で言われている。​

Ⅴ12:「手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め(収穫、御国の完成、一方で)殻を消えない火で焼き尽くされます(裁き)。」​

 箕というのは、収穫物の実と殻とに分けるために脱穀のために使われるもの。刈りとった穂を箕で空に放り、そして、風が実と殻を分ける。そして、実=麦は倉に納め、殻は火で焼き尽くされるというのです。そして、そのことが為されるようにと、神様は御子であるイエス様をこの地上に送って下さったと、Ⅴ11で語られている。​

Ⅴ11:「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」​

 「バプテスマ」と言うのは、「一体化」すること、「浸す」こと。だから、「水のバプテスマ」とは、水と一体化すること。「水」とは、文字通り洗礼槽の中の水のことだが、またそれは、私たちが告白する信仰の言葉のことでもある。みことばを信じて告白する(告白=ホモロギアも、一体化すると言う意味の言葉)ことで、その信仰の言葉と一体化し、そして洗礼を受けるのです。告白した言葉のように、一つになるということなのです。それが洗礼の意味でもある。​

ローマ10:9~10:「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」​

 しかしヨハネはここで、その私たちが受けたバプテスマと共に、さらに重要なバプテスマがあると言っている。「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(Ⅴ11)と。水のバプテスマよりもはるかに力のある聖霊と火とのバプテスマがその後に来るということです。そして、その「聖霊と火との」とあるように、その順序は非常に重要です。イエス様は、私たちはこの時代の終わりには、誰でもが火のバプテスマ、つまり火による裁きを受けると言われた。(「バプテスマ」は裁きをも意味する(ルカ12:50))だからその備えのために、ヨハネはイエス様が私たちに聖霊のバプテスマを授けるのだと言ったのです。聖霊のバプテスマは、聖霊に満たされることです。聖霊に満たされることにより、悔い改めに相応しい実を結び、終わりの日の裁きに合うことがないためです。そうして、救いの完成が為されるのです。紙コップと陶器茶碗とではどちらが火に耐えるだろう。陶器茶碗である。神様は私たちに聖霊のバプテスマを授けることで、紙コップではなく陶器茶碗のように、火に堪え得る、裁きに合うことのないものに聖めて下さる、そして救いを完成して下さるのです。だから、そのために私たちの信仰生活には聖めのための聖霊の働きがあるのです。​

Ⅰペテロ1:7:「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」​

【結論】

今日のコロナの問題も、終わりの収穫、審判のための、その準備の時でもある。何があってもイエス様から離れず、イエス様を主と告白し続け、そして、聖霊に満たされ続けて歩む、すなわち、聖霊のバプテスマの中を歩み続ける。それが唯一、終わりの日の収穫、審判の時に、永遠に燃える火の中に投げ込まれるのではなく、御国に収穫され、救いの完成を受けるに相応しい者なのです。​

―祈り―


これまでのメッセージ

© 2015-2021 by Sunrise Christian Center Misato Yoshikawa Church

大きな幻を持ち、小さいことにも忠実に、・・・主の愛に生きる教会

 Big enough to vision and small enough to care, ...living in the love of our Lord.

  • Twitter Social Icon
  • c-facebook
This site was designed with the
.com
website builder. Create your website today.
Start Now