2021年2月14日(日) 主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

Ⅰペテロ2:6~8:

【タイトル】

「主に信頼する者は、決して失望させられることがない。」

【序論】

 今日の聖書箇所は、Ⅴ6の最初に「なぜなら」とあるように、その前の

Ⅴ1~Ⅴ5で語られている5つの命令と、その命令に関連したことを受け、

その理由を述べるように語られていることです。それらの命令も、また

関連した言葉も重要なものだが、今日はその理由を述べているⅤ6~Ⅴ8の所で語られているメッセージ、特に、Ⅴ6にある「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」というテーマを中心にメッセージを取り次ぐ。

【本論】

 先ずそのテーマに入る前に、この手紙の背景に触れる。ペテロはこの手紙を「イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。」(1:1~2)とあるように、今のトルコ、当時の小アジアと呼ばれている地域に散って住んでいるクリスチャンたちに向けて書いた。それは、昔からの風習や異なる価値観、また、中には神や目に見えないものなど信じないという懐疑的な人々が住む社会の中で、信仰を持って生きることは容易なことではないので、そんな中に住むクリスチャンに対して励ましのメッセージを送るためであった。

だから今日の個所は、日本という、まだ99%の人がクリスチャンではない国に生きている私たちにとっても、励ましになるみことばである。そういう中でペテロは、イエス様を信じたけれども、多くの問題に直面している人々に、「聖書にこうあるからです。」(Ⅴ6)とあるように、「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」(Ⅴ6)と言った。これは、旧約聖書のイザヤ28:16の預言の引用です。ペテロはこの引用をもって彼らを励ましたのである。では、そのイザヤ28:16を見てみよう。

イザヤ28:16:「だから、神である主は、こう仰せられる。『見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。』」

 「これ」とは、「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石」と預言したように、神がシオンであるエルサレムに、その都を永遠に治める方として、礎石のように据えられた王を現わす。その王は「試みを経た石」とあるように、この時の預言から約750年後、エルサレムの城外でユダヤ人の王として、十字架と言う試みを経られた救い主イエス・キリストを指す。だから、ペテロはその預言の成就としてこのみことばを引用し、「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」(Ⅰペテロ2:6)と言ったのです。勿論、「彼」とはイエス・キリストのことである。

 また、イザヤ28:16の「あわてることがない。」も、Ⅰペテロ2:6の「失望させられることがない。」も、どちらも原典、イザヤ書はヘブル語だが、紀元前3世紀に翻訳されたセプチュアギンタ(70人訳ギリシャ語聖書)では、同じギリシャ語の「カタイスクノー」という言葉が使われている。意味は、「辱める。混乱させる。失敗させる。倒す。滅ぼす」という意味。だから、「あわてることがない。」も、「失望させられることがない。」も、どちらも「辱められることはない。混乱させられることはない。失敗させられることはない。倒されない。滅ぼされない」ということである。

 何故ペテロはイザヤのこの預言を引用して、「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」というメッセージを送ったのか?―理由は2つある。

(1)神御自身に関わることであって、このイザヤの語った神の言葉=預言がこのように実現したように、また、預言を語る神は真実な方であるので、その神のみことばの確かさ、神の真実の確かさのゆえに、人は神に信頼するならば、決して失望させられることはないということを教えるためだった

 19世紀の聖書学者Henry Liddonは、イエス・キリストの誕生とその働きに関わる預言は旧約聖書中に332あり、それは皆成就したと言った。また、実際にはそんなにはなく、ある学者によれば、それらは75であるという。いずれにしても、預言の数は別にしろ、神の口から出た言葉、預言は、次のみことばのように必ず実現するのである。

イザヤ55:9~11:「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」

 また、次のみことばは神の揺らぐことのない真実を語っている。

Ⅱテモテ2:13:「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」

※このように、神はいつの時代でも真実なので、必ず預言の成就、約束は守られるのである。だから、神に信頼しよう。

(2)私たち、人に関わることで、人が本当に神に信頼するならば、人は決して失望させられることがないことを教えるためだった

 信頼というのは、全身全霊をもって信頼する、より頼む、全身全霊を傾けるということです。だから私たちがそうするならば、イエス・キリストは私たちのとっての礎の石、揺るがない岩のような方なので、決して私たちは失望させられることはない。倒される、滅びる、失敗させられることはない。ダビデは、そのことについてこう言っている。

詩篇62:6~8:「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。セラ」

だから、自分の力、自分の考え、自分の知恵、つまり、神にではなく、自分というものに信頼して、神に対して不従順で、信頼しない生き方をするなら、そのような人は必ず失望させられる、失敗させられる、辱められる、倒される、滅びるというのである。Ⅴ7~Ⅴ8は、まさにそのことを言っている。

Ⅴ7~Ⅴ8:「したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。」

 また、イエス様が語るマタイ21:33の譬え話でも、そのことを教えている。

マタイ21:33~44:「もう一つのたとえを聞きなさい。ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、息子を遣わした。すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。この場合、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」

 Ⅴ44の「この石」とは、主を信頼する者には「礎の石」であり「救いの岩」だが、自分に頼り、主を信頼せず、主に従順しない者には、「躓きの石」となり「妨げの石」になるのである。同じ一つの石が、信頼するかしないかにより「礎の石」、「救いの岩」となり、また「躓きの石」、「妨げの岩」ともなるのである。

 また、石は小さなものであるのに、どうして人はそんな小さな石に躓くことがあるのか?―それは、神にではなく、自分に信頼するからである。自分の思い込みや考え、知恵や判断など、神にではなく、自分というものに慢心して、高ぶり、油断するからである。

引用例:私の階段での足の踏み外し。そこにもう一段あるとは思わずに、足を踏み外した。正に、自分というものに頼った結果である。

【結論】

 あなたはどちらだろうか?―私たちは、最後には失望することがないよう、主を信頼する者になろう。

―祈り―


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