2021年3月7日(日) 主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

Ⅰコリント11:23~26

【タイトル】

聖餐式―新しい契約によるクリスチャン生活


【序論】

 今日は第一聖日なので、この後に聖餐式を行なうが、今日はその聖餐式で開かれる聖書箇所の中から、Ⅴ24の「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」とⅤ25の「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」というみことばの個所から、Ⅴ25の「新しい契約」ということと、Ⅴ24とⅤ25の両方で繰り返し命じられている「わたしを覚えて、これを行ないなさい。」の2つのことについてメッセージを取り次ぐ。

(1)「新しい契約」について。

 今年私たちは、「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」(黙21:5)という年間聖句から、私たちはイエス様によって新しくされる。特に終末のイエス様の再臨による救いの完成時には、私たちは完全に新しくされるのだということを覚え、そこに焦点を当てて信仰生活を送っているが、その信仰生活を送るためには、この「新しい契約」というものを理解することが非常に重要である。何故なら、この新しい契約を実行することにより、私たちは、主が「見よ。わたしはすべてを新しくする。」という主のみわざに預かることが出来るからである。新しい契約に基づく信仰生活を送ることにより、私たちの救いが完成され、全く新しくされるのである。

Ⅱコリント3:6:「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」

 そして、この新しい契約、御霊に仕える契約を実行して行くなら、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:18)というみわざがなされるのである。

また、「新しい契約」があるのなら、「古い契約」というものもあるはず。ではその古い契約とは何か?へブル書の記者は、その古い契約を、「初めの契約」と呼んで次のように言っている。

ヘブル8:7~10:「もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。それは、わたしが彼らの父祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

 「初めの契約」とはモーセ契約=モーセ律法のことです。ヘブル書の記者は、それに欠けがあったので、「後のもの」=「新しい契約」が必要になったのだと言い、その経緯をエレミヤ31:31~33のみことばを引用して説明している。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。それは、わたしが彼らの父祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と。

この個所で分かるように、「欠け」とは契約自体に欠けがあったということでなく、契約の一方の人たちがそれを実行するが出来なかったから、契約に欠けがあったと言うのである。それで神様は、私たちがそれを実行することができるようにと、十戒のように石の板にでなく、モーセ律法のように巻き物にでなく、私たちの心に律法を書かれたと言う。これが、新しい契約です。それも、パウロはそれは人の手によらず、御霊によるものだと言っている。

Ⅱコリント3:3:「あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。」

 これが、新しい契約によって救われ、新しい契約によって生きる私たちクリスチャンの姿です。私たちの内には、この生ける御霊がおられ、この方が私たちにどのように生きたら良いかを教えてくださる。導いてくださるのです。

Ⅰヨハネ2:27:「あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、──その教えは真理であって偽りではありません──また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」

 だから、わたしたちが御霊に導かれて信仰生活を送るなら、新しい契約を実行するクリスチャンとして生活することが出来るのである。それを、モーセは預言的に申命記で語っている。

申命記30:14:「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」

※出来ない者ではなく、出来る者として信仰生活を生きることが出来るのである。

◎では、御霊は一体、私たちの心の板に何を書き記してくれたのだろう?―それが、聖餐式で、「わたしを覚えて、これを行ないなさい。」と言われている、私たちのためにみからだを裂いてくださり、血潮を流して下さった御子イエス・キリストです。

(2)「わたしを覚えて、これを行ないなさい。」について

イエス様は、「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」(Ⅴ24)と、「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(Ⅴ25)と言われた。ここで言われている「覚えて」は、原語のギリシャ語で、アナムネオースといい、「アナ」(再び)と「ムネオー、ムネモーン」(覚える。心に留める。思い出す。)の二つからなっている。つまり、繰り返し繰り返し心に留めて、忘れないようにする、覚えるということです。この個所を他の聖書に当たってみると、本田哲郎師の私訳の聖書「パウロの書簡」ではこうある。

本田哲郎師訳「パウロの書簡」:Ⅰコリント11:25:「また、夕食のあと、杯についても同じようにして、こう言われた。『この杯はわたしの血による新しい契約。このように行なって、飲むたびに、わたしを心に刻みなさい。』と。」

つまり、繰り返し繰り返し心に留めることにより、恰も心に刻むかのように、決して忘れることが出来ないように覚えるということなのである。

◎では、どうしてそんなに心に刻むかのように覚えなさいというのだろうか?―何故なら、それが新しい契約の下で生きるクリスチャンとしての姿だからです。私たちの信仰とはイエス様との関係です。イエス様のことを知れば知るほど、その関係は深まり、そしてイエス様のことが心に深く刻まれるのである。抄訳聖書では、この「わたしを覚えて」をこのように言っている。「わたしを[愛情をもって]覚えるために」と。つまり、私たちとイエス様との関係は愛情をもって覚える特別な関係なのです。

 以前、杉戸教会の中高生会で、①「イエス様はどういう人か」、また、②「イエス様はあなたにとってどういう人か」の質問を投げかけたことがある。結果は、ほとんどの中学生が①については答えられても、②については答えがなかった。

※そう、イエス様を信じるということは、そのようにイエス様との人格的な関係で、心に刻むように経験すれば経験するほど、イエス様のことが分かり、文字ではなく、御霊に仕える信仰生活を送ることが出来るようになるのである。

【結論】

 イエス様はあなたにとってどういう人だろうか?個人的にどういう人でしょうか?何度も何度も覚えて、体験して、知って、心に刻んで行こう。

―祈り―

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