2021年4月11日(日) 主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

マルコ2:1~12

​【タイトル】

「神は新しいことをする。」

【本論】

Ⅴ1:「数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。」

 「数日たって」とは、いつの時点からのことか?―それは、前の章のイエス様の公生涯の開始、即ち、バプテスマのヨハネからヨルダン川で洗礼を受け(Ⅴ9)、福音宣教の開始を宣言され(Ⅴ14~Ⅴ15)、ペテロやアンデレ、ヨハネやヤコブ等の弟子を召し集め、最初にガリラヤ湖のほとりのカペナウムの町に行って会堂に入って教え始められ、そこで悪霊追出しをし(Ⅴ21~Ⅴ27)、ペテロの家に行って、姑が熱病で寝ていたので彼女を癒し(Ⅴ29~Ⅴ31)、カペナウム中からやって来た病人や悪霊に憑かれていた人たちを癒し、また悪霊追出しをし、そして、その後はガリラヤ中を巡って会堂で教え、同じように悪霊追出しや病気の癒しをされ(Ⅴ32~Ⅴ34)、そして、ひとりのらい病人を癒し(Ⅴ40~Ⅴ44)、続けてガリラヤ地域を巡られ、そして、最初に働きを始められたカペナウムに戻ってこられた。「数日たって」というのは、その時のことである。

 イエス様はカペナウムに戻られると、ある一軒の家に入られた。すると、また多くの人々が集まって来た。この一軒の家とは、イエス様によって召された弟子のペテロとアンデレの家ではなかったかと言う。イエス様はこの地方で伝道する時は、カペナウムを中心にして働かれていたので、彼らの家を拠点していたと言われているからである。さて、そうすると、そこに一人の中風の人が四人の人に担がれてやって来た。「かつがれて」と言っても、「背負われて」という意味ではなく、この後、彼は床に寝かせられたまま、この家の天上から吊り下ろされたと記されているので、彼らは床の四隅を持って連れて来られたということでしょう。そうして、彼が天井から床に伏したまま吊り降ろされて来ると、イエス様は彼にこう言われた。「子よ。あなたの罪は赦されました。」(Ⅴ5)と。そうすると、そこにいた律法学者たちが心の中でこんな理屈を言ったと言う。「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」(Ⅴ7)と。この理屈は、ある意味では尤もなものだと思う。何故なら、彼らはイエス様が神の子であり、救い主、癒し主であることを知らなかったからです。

 では、もしここにクリスチャンである私たちが居たとしたらどうだろう。きっと私たちも別の意味で理屈を言ったのではないかと思う?どんな理屈か?―それは、イエス様は中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われたが、彼は私たちの救い時のように、「口でイエスを主と告白し、心で、神様はイエス様を死者の中からよみがえらせてくださった。」(ローマ10:9)わけではないからです。だから、どうしてイエス様はこの人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言ったのかと、私たちの持っているクリスチャンとしての理屈で呟いたことだろう。

※ここに、聖書を神の言葉として信じる「聖書信仰」の大切なポイントがある。私たちの聖書信仰とは、聖書に書かれている文字としての一語一句を神の言葉としているわけではない。言語や翻訳の違いという意味ではなく、仮令この聖書に文字で書かれていなくても、そこには御霊によって語られた神の言葉がある。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(Ⅱテモテ3:16)とか、「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」(Ⅱコリント3:6)とはそのことを言う。

 神は御霊により、聖書を通して、文字としての神の言葉ではなく、神の生ける言葉を私たちに語ってくださるのです。言葉は神そのものだから、聖書を信じる、神の言葉を信じるということは、神そのものを信じるということなのである。それが聖書信仰の中心です。御霊によって、聖書を、神の言葉を、イエス様御自身を信じるのです。それが聖書信仰です。だから、一人の中風の人が四人の男に運ばれて来たとき、「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた。」(Ⅴ5)のです。彼らには中風の人も含めて、イエス様に対する信仰があった。

 また、ここにはもう一つ重要なことが語られている。それは、皮肉にも律法学者が口にしていたように、またイエス様御自身が語られたように、罪の赦しを与えることが出来るのは神しかいないということです。イエス様はそのことを彼らに、またこの個所を読んでいる私たちに教えるために、目に見えることしか信じない人や、目に見えない神や奇跡など信じないという人たち、無神論者や、現代の合理主義者たちが信じることが出来るように、不思議な言い方でそのことを語られた。それは、「中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。」(Ⅴ9)という言葉です。目に見えることしか信じないこの世の人に対しては、「あなたの罪は赦された。」と言う方がやさしい。何故なら、それは罪の赦しは目に見える形で証明できないからです。しかし、「起きて、寝床をたたんで歩け。」と言うのは、この世的に言うには難しい。何故なら、そう言ったなら、そうならなければならないからです。それは目に見えるからである。イエス様が初めに「あなたの罪は赦された。」と言われたのは、イエス様にはそれを言う権威があったからだが、それを示すために、イエス様は目に見えるしるしをもって、目に見えないしるしを証明したのである。それで人々は、「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って、神をあがめた。

※ここに、今日のメッセージの中心テーマがある。それは、神は私たちに新しいことをする。それも、私たちの知恵や理解をはるかに越えた新しいことです。人々はこの癒しのみわざを見て、「こういうことは、かつて見たことがない。」つまり、「こんなこと、今までになかった。これは新しいことだ。」と言ったのである。それまでのイエス様の宣教においてもそれはあった。

マルコ1:22:「人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」

マルコ1:27:「人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。『これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。』」と。

※そう!神様は私たちに対して、新しいことをなされるのです。その「新しい」というのは、「時間的に新しい、古い」ということではなく、それは「質的に全く異なる、新しい、今までに見たことも、聞いたことも、存在したことのないようなこと」ということです。その究極が、今年のみことばの、神様のゴールである「見よ。すべてを新しくする。」ということなのです。この「新しい」ということは、この世の知恵、人の知恵では理解のできないことです。だから律法学者たちは、イエス様の語られたことに対して、「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。」(Ⅴ7)と、心の中で理屈を言ったのです。

※そう!神様の言われること、なさることは、私たちの知性ではとうてい理解できないこと、想定外、計算外のことなのです。私たちは罪を持って生まれて以来、生まれながらに自分の人生を支配しようとする。自分が神になろうとするのです。これが罪の性質であり、悪魔の性質そのものです。しかし、神が治めておられるこの世界ではそのようにはならない。何故なら、神様の思いと計画は、私たちの思いと計画とは異なるからです。

イザヤ55:8~9:「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。──【主】の御告げ──天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」

 神様は私たちの理解を越えて、私たちの想定外のところで、計算外のところで御自身のみわざをなされる。それが私たちにとって「新しい」ことなのです。パウロは、その新しさ、不思議、理解不能なことについてこう言った。

Ⅰコリント2:6~10a:「しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。」

 十字架の奥義は人には理解できない、サタンにも理解できなかった。そして復活の奥義も人にもサタンにも理解できなかった。しかし神は、この理解を越えた「新しいこと」を通して私たちを救ってくれたのである。それは私たちを愛しておられるからである。

エレミヤ33:3:「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」

 神はイスラエルの民にも、彼らの理解を越えた「新しいこと」、即ち、70年後のバビロン捕囚からの解放を告げ、それを行なった。

伝道者3:11:「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」

 このみことばの通りである。そして、これらは皆、神が愛であるところから始まったのです。

ヨハネ3:16:「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 神はこのように、人には信じられない、理解できない方法、「新しいこと」を通して、私たちを救われた。それは、私たちを愛しているからです。

【結論】

 だから、私たちの人生に、また周りに、どのように理解できないこと、不思議なこと、新しいことが起こっても、神は変わらず私たちを愛しておられ、私たちを救い、導こうとされているのです。私たちを最終的に完全な姿に変えようと、その姿さえも私たちには予測することさえ出来ない新しい姿だが、そのようなものへと変えようと、導こうと、人知を超えた良い計画を持っているのです。だから、神を信じ、従って行こう。委ねて行こう。

―祈り―


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