2021年4月25日(日) 主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

ネヘミヤ11:1~3a

​【タイトル】

「ネヘミヤ記(18)ー教会を真に形造るものー」

【序論】

 この個所は、昨年のネヘミヤ記の学び(13)で触れたように、ネヘミ

ヤ記7:4の続きの個所に当たる。ネヘミヤ記7:1~4では、ネヘミヤ達の働きによって城壁再建工事は完了したものの、そこに住む人はまだ少なく、そのために神がネヘミヤの心を動かし、完成した城壁内に住む人たちを集め、住民登録をし、都の防備を図ろうとした、ということだった。​

 今日はその続きであって、そのために、いかにまだ閑散としていた城内に人々が集められ、その都の中での共同体が形成されて行ったのかということを見ることを通し、私たち信仰共同体としての教会の形造りのあり方を学んで行きたいと思う。

【本論】

Ⅴ1~Ⅴ3a:「民のつかさたちはエルサレムに住んでいたが、ほかの民は、くじを引いて、十人のうちからひとりずつ、聖なる都エルサレムに来て住むようにし、あとの九人をほかの町々に住まわせた。すると民は、自分から進んでエルサレムに住もうとする人々をみな、祝福した。エルサレムに住んだこの州のかしらたちは次のとおりである。」

 Ⅴ3の「エルサレムに住んだこの州のかしらたちは次のとおりである。」とは、Ⅴ4~Ⅴ24で名前が上げられている、エルサレムに住んだ人々のことである。少しずつ見て行きたいと思う。

Ⅴ4~Ⅴ6:「ユダとベニヤミン族のうちのある者は、…。エルサレムに住んだペレツの子孫は合計468名の勇士であった。」

 ここでは先ずユダ族の主だった人の名が上げられ、そこに住んだ人々の数が468名だと記されている。そしてⅤ7~Ⅴ8では、ベニヤミン族の主な人の名前とその人数が記されている。

Ⅴ7~Ⅴ8:「ベニヤミン族では次のとおりである。メシュラムの子サル。このメシュラムはヨエデの子、順次さかのぼって、ペダヤの子、コラヤの子、マアセヤの子、イティエルの子、エシャヤの子である。彼の次には、ガバイとサライで、九百二十八名。」

 続いてⅤ10~Ⅴ24では、ユダ族、ベニヤミン族以外の、神殿で奉仕者として立てられているレビ人の主な人の名前と、神殿でどのような働き、奉仕に付いているかが記されている。

Ⅴ10:「祭司のうちでは、エホヤリブの子エダヤと、ヤキン、」

Ⅴ11:「神の宮のつかさ(祭司長のこと)」セラヤ、」

Ⅴ12:「...、宮の務めをする彼らの同族で、822名。」

 またⅤ16を見ると、「神の宮の外での仕事」というものもあって、それらの仕事をする人々もいた。そしてⅤ17~Ⅴ24のところでは、「祈りのために感謝の歌をささげる人々(これも聖歌隊?)とその指揮者」(Ⅴ17)、「門衛」(Ⅴ19)、「宮に仕えるしもべたち」(Ⅴ21)、「歌うたいたち(聖歌隊?)」(Ⅴ22)、「王に代わって民に関するすべての事がらを取り扱う人たち(行政の役人)」(Ⅴ24)というように、それらの務め、働きがあったことが記されている。

※なので、ここから2つのポイントが分かる。先ず、①都の中ではいろいろな務め、働きがあったということ。次に、②それらの働きをするために人々がエルサレムの中に住むようになったわけだが、そのために彼らはくじで当たったからというように、義務ということではなく、自ら進んで都に住み、そしてその役割を担ったということである。

Ⅴ2:「すると民は、自分から進んでエルサレムに住もうとする人々をみな、祝福した。」

※このことを見ると、これは前記したように、私たち教会にも当てはめて見ることが出来るのではないか!このことから、教会とは何によって形造られるものなのか、ということを考えたい。

 開くところは、教会の姿を描いているⅠコリント12:12~31である。

Ⅰコリント12:12~20:「ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。」

 先ずこの個所では、最初のポイントのように、教会にはいろいろな器官、つまり、いろいろな働きをする教会員がいる、そのような教会員によって教会と言うものは形造られているということです。それがここでは、一つの体にある手、足、目、耳という器官の存在として記されている。

 次に、Ⅴ21~Ⅴ27で、それらの異なる器官が教会の中にはあるが、それらの器官が教会の中でバラバラに働くのではなく、補い合いながら、調和し合いながら働くものであるということ。そうしなければ、一つのからだとして機能しないということが記されている。

Ⅴ21~Ⅴ27:「そこで、目が手に向かって、『私はあなたを必要としない。』と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」

 ネヘミヤ記で見るなら、エルサレム城内に移り住むに当たり、ただくじで当たったからというだけでなく、「自ら進んでエルサレムに住もう」(Ⅴ2)という人々がいたと言うことなのです。当時のイスラエルの町では、いつ敵が攻めに来るか分からない、そのような危険性があった。だから、そのような危険性のある城内に住むと言うことは覚悟が要ったはず。彼らはそのように、覚悟を持って「自ら」関わって行ったのです。

※教会もそうでなければならない。そうでなければ、一つのキリストの体である教会は形造られることはないのです。この個所はそのことを教えている。そして、パウロはその結論として、それを可能にするための、どんな器官や賜物よりも、なくてはならない最もすぐれた賜物、すべてにまさる一つの道について語っている。それが今日の結論である。

Ⅴ30~Ⅴ31:「みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。」

 では、その「さらにまさる道」とは何か?―それが次の13章に繋がって行って、そこで語られている「神の愛」のこと。そして、その神の愛の特質の一つを示しているのが、ネヘミヤ記で見ることが出来た「自ら進んで」という特質なのである。そう!―エルサレムに住むイスラエルという信仰共同体にしても、今日の私たちの教会という信仰共同体にしても、それが形造られるためになくてはならないのは、「自ら進んで」という愛の特質なのです。

※愛とは、愛する相手のための最善のことをすること、それが愛です。そのために、イエスキリストは私たちのためにこの地に来て下さり、十字架の贖いをしてくださった。それが、ピリピ2:1~8で語られている。

ピリピ2:1~8:「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」

 また、その姿は聖書中の一人の人物に見ることが出来る。ベタニヤのマリヤである。

ルカ10:41~42:「主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 一見すると、マリヤには愛がないように見える。むしろ自己中心に見える。しかし、愛というのは相手との関係の中で、相手に対して最善のことをすること。この時、イエス様がここに来られた目的はみことばを語るためであった。だから、ここでは愛は、その目的を果たすことが出来るようにするために「自ら進んで」、そのために自分をささげることなのである。

※イエス様は、仕えさせるためではなく、仕えるために来たと言われた(マタイ20:28)。だから、それを受けて、イエス様の奉仕を受けること、それがイエス様に対する愛なのです。

【結論】

教会にとって教会が形造られるために必要なことは、神との関係において、神を第一にし、神を愛し、神の支配を認め、神に従順することなのです。それが、唯一の「さらにまさる道」(Ⅰコリント12:31b)なのです。神はそのように、神を愛し、神のために自ら進んで自分を捧げる人を求めているのです。それによって神は、御自身のからだである教会を形作られるのです。

―祈り―

これまでのメッセージ

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