2021年4月4日(日) イースター礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

ヨハネ2:13~22

​【タイトル】

「よみがえりのいのちによるキリストの教会」

【導入】

スライド:広島の原爆投下後1カ月後に咲いたカンナの写真。75年は草

木も生えないだろうと言われた被爆地に咲いた花。草木が持っている命の

力はすごい。しかし、それよりはるかにすごい命の力がある。イエス・キ

リストのよみがえりの力です。イエス・キリストはこう言われた。

ヨハネ11:25b~26a:「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」

 きょうはこの「よみがえりのいのち」と私たちについて、特に、私たちは「キリストのからだ」と言われている教会でもあるので、キリストのよみがえりのいのちと教会との関係について、「よみがえりのいのちによる教会」というテーマで、御一緒に聖書から考えて行きたい。

【本論】

 イエス様が過越しの祭りに宮に入って行くと、宮の中で牛や羊、鳩を売っている人たちや両替人たちが商売をしていた。それでイエス様は牛や羊を宮から追い出し、両替人が商売していた台を倒し、鳩を売っている人たちに、「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(Ⅴ16)と言って、宮から追い出した。いわゆる「宮清め」と呼ばれていることを行なった。それを見て弟子たちは、「『あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。』と書いてあるのを思い起こした。」(Ⅴ17)とある。それは、詩篇69:9「それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、あなたをそしる人々のそしりが、私に降りかかったからです。」という、ダビデが、後にイエス様の受ける苦しみやそしりを預言的に記したみことばです。何故弟子たちはこのように言ったのか、それは、イエス様が今しがた、神様に対する純粋な心(それをここでは「熱心」と表している)、その熱心さのために、平気で神殿で商売をしている人たちからイエス様がそしりを受けているのを見たからである。それは、この後実際に人々が、「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」(Ⅴ18)と言ってイエス様に詰め寄る行動をとっていることから分かる。そんな彼らにイエス様は、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(Ⅴ19)と答えられたのです。イエス様は、御自身が「三日でそれを建てよう。」と言った「神殿」のことは自分のからだのことであると、この後言っているが、この言葉の中に今日のメッセージのポイントがある。それは、教会とは十字架で死んで、その死からよみがえられたイエス・キリストのよみがえりのいのちによって建てられるものなのだということです。

※そうです!―教会とは、イエス様が十字架で死んだ後、三日目によみがえられたキリストのよみがえりのいのちによって建てられるキリストの体なのです。

 では、そもそも何故イエス様は十字架で死なれたのだろうか?それは聖書が明らかにしている。

ヘブル2:14a~15:「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」

 イエス様が十字架で死なれたのは、私たちを罪と死の力から解放するためだった。そのためにイエス様はその力が宿る血と肉を持つ体を、私たちが持つのと同じように持たれ、そして十字架で死んで下さったのである。それにより、私たちを罪と死の力の宿る血と肉の持つ体から切り離して解放してくださったのです。しかし、イエス様が私たちと同じ体をもって十字架で死んで下さったのは、ただ私たちを罪と死の力から解放して下さるためだけではありませんでした。それは聖書の別の個所で言っているように、私たちを御自身のよみがえりのいのちにより、キリストの体として、もはや生まれながらの肉の力、肉の性質によらず、まったく別の、まったく新しい性質を持った体を持った者として生きるようにして下さるためでした。それが、よみがえられたキリストのいのちによって生きるキリストのからだ、教会なのです。

Ⅰコリント15:35~44:「ところが、ある人はこう言うでしょう。『死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。』愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」

 私たちの生まれながらの性質をもった体は蒔かれて死にました。どこに蒔かれたのか?―十字架にです。そして私たちは、私たちのために死んでよみがえられたイエス・キリストを信じる信仰により、それまでとは全く別の、御霊に属するからだ、キリストのからだとして生きるようになったのです。パウロはそのことを、ガラテヤ書で、次のように言っている。

ガラテヤ2:19~20b:「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」

※ここに、神の教会の姿が明らかにされている。教会は、生まれながらの肉のいのち、肉の力によって生きるものではなく、よみがえられたキリストのいのち、御霊の力によって生きるものなのです。

※そうです。私たちはもはや生まれながらの肉の力、いのちによって生きるのではなく、よみがえられたキリストのいのち、御霊によって生きるキリストのからだ、教会なのです。ところが当時、生まれながらの肉の性質、生まれながらの肉の力で信仰生活を、また教会生活を送ろうとする人たちがいたようです。生まれながらにユダヤ人であることを誇り、律法主義者として生きていた人たちです。だからパウロはそんな人たちにこう言った。

ガラテヤ3:3:「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」と。

 彼らはまたその時、ヘロデ王が建てていた神殿を誇っていた。しかし、イエス様はそれらの物は崩れ去ると言われた。(マタイ24:2)その後、AD70年、ローマ軍によって破壊されたのである。どうしてか?―神に頼らず、神に目を留めず、生まれながらのもの、目に見えるもの、この世のものを誇り、それらに信仰を置いていたからである。バビロン捕囚の時と同じである。人はそのように、目に見えるものに目を留めやすい。信仰を置きやすいのである。

 私たちはどうであろうか?―何に目を留め、何を誇っているだろうか。この世の中にはいろんな教会がある。沢山人の集まる教会もある。立派な建物を持っている教会もある。しかし、それが一番大切なことではない。何故なら、それらの目に見えるこの世のものはいずれ崩れ去るからである。草は枯れ、花はしぼむのである。

※重要なのは、そこにいのちがあるかどうかです。造花の花のようにどんなに立派に見えても、造花はいのちがないので実を結ぶことはない。しかし、よみがえりのいのちによるキリストの体である教会は、そこにいのちがあるので、必ず成長し、実を結ぶのです。それが真の教会です。

ヨハネ12:24:「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」

※このように、古い体は十字架で死に、よみがえりのいのちによるキリストの体である真の教会は、御霊のからだとして、キリストと共に建て上げられて行くのです。

【結論】

 今月、私たちは教会にとって非常に重要な話し合いの時を持つ。その話合いの結果により、今後の私たちの教会の向かう方向、また教会の姿は決まって来る。だから、何によって歩むのか、イエス様は私たちに何を願っているか、どのように御自身の教会を建てようとされているか、私たちは、イエス様が求め、イエス様が自ら建てようとされる真の教会、生まれながらのものであるこの世の性質、この世の知恵と力ではなく、それらに死んで、それらによるのではない、よみがえられたいのちによる真の教会を求めて行こう。

ヨハネ2:19b:「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」

―祈り―


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