2021年5月2日(日)主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

エレミヤ31:31~34

​【タイトル】

「新しい契約の下に生きること」

【序論】

 今日開かれて聖書の個所は、旧約聖書の中で唯一、「新しい契約」という言葉を用いて、今日私たちが信じているイエス・キリストによる、①罪の赦しと、②本当の意味での神の子どもとして新しく生まれるということはどういうことか、そして、③その神の子どもとして生きるということはどういうことかということを教えているところで、非常に重要な個所である。

【本論】

(1)罪の赦しについて

Ⅴ31:「見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。」​

 「見よ。その日が来る」という「その日」とはいつのことか、それは、Ⅴ33の「彼らの時代の後」の日のことである。では、「彼らの時」とは?―それは、Ⅴ32で記されているように、エジプトを出たイスラエルの民が、荒野で「モーセ律法」、即ち「シナイ契約」を神から授かり、それ以降、その契約の下で信仰の民としての生きていた時のことである。しかし、「彼らはわたしの契約を破ってしまった。」とあるように、彼らはそれを守ることが出来なかったので、神は彼らと新たな契約を結ぼうとされたのです。それがここで語られている「新しい契約」です。その契約を神は「彼らの時代の後に」とあるように、モーセ律法の時代が終る時に定めてイスラエルに与えられたのです。パウロはそのことを次のように記している。​

ガラテヤ4:4:「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」​

 だからこの契約は、今日私たちが罪の赦しのために預かった、イエス・キリストの十字架の贖いによる新しい契約のことなのです。シナイ契約に記されている動物の血による罪の赦しを与える契約ではなく、世の罪を取り除く神の子羊としてこの世に送られた御子イエス・キリストによる罪の赦しを与える契約です。それで、エレミヤは、「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──」、「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ31:33a、34c)と言ったのです。

 今日はこの後、私たちは聖餐式に預かるが、イエス様は最後の晩餐の席で、「…。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。』」(Ⅰコリント11:25)と言われた。今日も聖餐式を通して、この新しい契約による、この罪の赦しの恵みを覚えよう。​

(2)本当の意味での神の子どもとして新しく生まれるということは?​

Ⅴ33:「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

 シナイ契約は十戒を象徴として、石の板の上に書き記されたが、神がイスラエルの家と新たに結ぼうとされる新しい契約は、石の板ではなく、心の板に書き記される契約だと言う。ここでの「イスラエルの家」とは、先に出て来た「イスラエルの家とユダの家」と同じで、イスラエル民族を表すが、それだけではなく、イエス・キリストの血潮による罪の赦しの恵みに預かった私たちのことでもある。肉によるならば、私たちはイスラエルの民ではないが、新しい契約によるならば、私たちもアブラハムの子孫、イスラエルの民なのです。

ガラテヤ3:26~29:「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」

 神はアブラハムに信仰の民としてのしるし、割礼を施された。それでその子孫であるイスラエル人たちは皆割礼を受け、そのしるしが与えられていることを誇っていた。しかし、次第にその本質、信仰によって義とされるという、一番大切なことを見失うようになっていた。それでパウロは、そのような形骸化した姿について次のように言った。

ローマ2:28~29:「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」

※心に割礼を受け、心が刷新、新しくされた者が、本当の神の民、神の子どもなのであるということを、声を大にして言ったのである。

 ある時、イエス様のところに、ニコデモという民の指導者がやって来て、イエス様にこう言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」(ヨハネ3:2)と。するとイエス様は彼にこう言ったのである。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)、また、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」(ヨハネ3:5~7)と。彼は、民の指導者であり、パリサイ人として石の板に刻まれた神の言葉には精通し、割礼も受け、ユダヤ人としては何の遜色もなかったが、御霊による新生というものが分からなかったのである。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(3:8)とイエス様が言われたように、この後のペンテコステの日に聖霊が下り、人々の心に聖霊が宿り、信じて救われた者は聖霊によって生きて行くということを、まだ知らなかったのである。

※今日、新しい契約によって神の子とされた私たちは、心に聖霊を受け、聖霊が私たちの律法になって生きる者なのである。これが、新しい契約によって生まれた私たちの姿です。

(3)御霊が律法になった

 律法というのは、マニュアルのようなもので、モーセの律法が与えられて以来、イスラエル人にとってはそれは、エジプト脱出後にどのように荒野で、またカナンで生きて行ったら良いかを教えるものだった。そしてそれは、新しい契約に生きる私たちにとっても同じことである。しかし、それは石の板に書かれたシナイ契約のようなものではなく、私たちの内にあって、神との人格的関係、信仰によるものです。だから、私たちは文字に縛られるのではなく、御霊御自身によって教えられて行くものです。それをエレミヤはこう言った。

Ⅴ34:「そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。」

 私たちは直接、私たちの中におられる聖霊様によって、何をしたらよいか、どう生きたら良いかを教えられるのである。世の人々は、クリスチャンになるということは、守らなければならないことが多くあって窮屈なことのように感じているが、実態はまったく反対である。新しい契約に生きる私たちほど自由な者はいない。何故なら、私たちの律法は、「主の御霊のある所には自由があるからです。」(Ⅱコリント3:17)と言われる御霊御自身であり、石の板に書かれたものではなく、心の板に書かれたものだからです。

 本来はモーセの律法もそうだった。しかし、人々はモーセ律法を神との人格的関係、信仰によって捉えることをせず、ドグマにしてしまった。それで、モーセは彼らがカナンの地に入る前に、再度シナイ契約の本質を教えられたのである。それが申命記です。そして、それはモアブで語られたのでモアブ契約とも呼ぶ。そこでモーセはどう言っているか見てみよう。

申命記30:11~14:「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、『だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか。』と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、『だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか。』と言わなくてもよい。まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」

 また、ヤコブも、この御霊と律法との関係をこう言っている。

ヤコブ1:25:「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」

【結論】

 だから私たちはこのように、今、新しい契約に生きるものとして、①罪の赦しが与えられている。②新しく神の子として生まれて、生かされている。そして、③その指針、基準は、この神の言葉であり、それが受肉して、私たちのうちにおられる聖霊様御自身であることを覚え、このお方に従って行こう。

―祈り―

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