2021年5月23日(日) ペンテコステ礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

Ⅰコリント12:13

【タイトル】

「ペンテコステのもう一つの賜物」


【序論】

 今日は「ペンテコステのもう一つの賜物」というタイトルでメッセージを語るが、ペンテコステの賜物ということを考えた時、一番先に私たちの頭に浮かぶのは、ペンテコステの伝統的なメッセージである、使徒の働き1:8:「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」から語られる「キリストの証人となるための聖霊の力」のことではないか。しかし、ペンテコステの賜物について考えた時、そこにはもう一つの賜物がある。今日はそのことについて語る。少し硬い話になるが、ペンテコステというものを神学的に見た時、そこには主に3つの側面、意義、賜物がある。


一つは宣教学的な視点から見た側面、意義、賜物。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)ということです。この宣教が果たされるために、使徒の働き1:8が語っているように、私たちに聖霊の力が与えられるのです。


二つ目は終末論的な視点から見た側面、意義、賜物です。ペンテコステというのは、ユダヤのシャブオット(七週の祭り)に基づいている。この祭りは、初穂の祭り(過越し祭の3日目)という大麦の収穫の初穂をささげて祝う祭りから50日目の、小麦の初穂をささげて祝う祭りで、ユダヤにとって地の産物の収穫を祝う祭りである。一方、ペンテコステは私たちにとって霊的収穫を意味するものである。何故なら、私たちにとって初穂の祭りを意味するイースター(イエス様は初穂:Ⅰコリント15:23)から50日目がペンテコステであり、その日に聖霊が降ることにより、先ず120名程の弟子が収穫され、ペテロの説教により3,000名程の人が救われて収穫された。そのことがヨエル2章や3章、ゼカリヤ10章~14章で終末の聖霊降臨による魂の収穫の預言として語られいて、ペンテコステの日が正にその成就の始まりだったのである。そして、


第三は教会論的な側面、意義、賜物です。今日のみことばは、まさにそのことを表している


Ⅰコリント12:13:「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」


※ペンテコステの日に聖霊を注がれたことにより、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、すべての人がキリストにあって一つとなるようにされた。そして、教会が誕生した。これが、ペンテコステの持っている教会論的意義です。教会はペンテコステの賜物なのです。教会は、エペソ4:4~5で言うなら、「からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」を告白する多様な人の集まり、キリストのからだです。だから、ペンテコステの日に起きた出来事は、ちょうど、バベルの塔で起きた出来事の真逆の出来事と言ってよい。


 バベルの塔で起きたことは何かと言うと、ノアの洪水後、人類はノアの三人の息子、セム、ハム、ヤペテにより、その子孫を通して世界の人類を構成し、それは大雑把に言って、現在の欧米人(ヤペテ)、アジア人(セム)、アフリカ人(ハム)に当たるが、彼らは多様ではあったが、言葉は一つであった(創世記11:1)ので、彼らは心を合わせ、一致して神に逆らったのです。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。」(創世記11:4)と言うふうに、人間の驕(おご)り、高ぶり、慢心をもって、まさに肉の性質によって神様の領域にまで踏み入ろうとしたのです。そのため、神によって彼らの言葉は乱され、互いに通じないようにされ、心を一つにすることも、通わせ合うことも出来なくなり、彼らは地の全面に散らされたのです。(創世記11:7~9) それ以降、彼らは不和と争いと揉め事の絶えることのない世界に生きるようになってしまったのです。それが今日の世界でもある。


 しかし神様は、そんな状態になった私たちを救うために、御子イエス・キリストを私たちに送り、罪の赦しを与え、そして罪赦された者が、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、どんな人種、どんな国の人であろうと、一つの神の民、一つの神の家族となるように、「からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。」となるように、一つの御霊なる方を注いて下さったのです。多様な人の集まりが御霊によって一つとなるように、一つのからだ、一つの信仰共同体となるように、聖霊を注いて下さったのです。それがペンテコステのもう一つの賜物、ペンテコステの持つ意義の一つです。


 では実際に、ペンテコステによって生まれた教会がどのように一つの体となっているのかを見てみよう。


使徒2:42~47:「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」


Ⅴ42:「使徒たちの教えを固く守り」=一致を見ることが出来る。「交わりをし」=ここにも、多様性と一致を見る

 ことが出来、「パンを裂き」=ここにも多様性と一致、「祈りをしていた。」=多様性と一致を見ることが出来

 る。

Ⅴ43:「一同の心に恐れ」=多様性と一致、「使徒たちによって多くの不思議なしるしが行われた。」=ここに多様

 性を見ることが出来る。

Ⅴ44:「信者となった者たちはみないっしょにいて」=多様性と一致、「いっさいの物を共有にしていた。」=多様

 性と一致を見る。

Ⅴ45:「それぞれの必要に応じて、みなに分配していた」=多様性と一致が見られる。

Ⅴ46~Ⅴ47:「心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、

 すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」=多様性と一致が見られる。


 このように多様性の中に一致の姿を見ることが出来るのは、一つの御霊が注がれたことにより、今日の聖句Ⅰコリント12:13にあるように、「私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされた」のです。そうです!一つの御霊が注がれたと言うことが鍵なのです。「主は一つ」とあるように、聖霊様は一つのからだであって、バラバラではない。その一つの御霊によって、多様性の中に一つの体、一致が生まれた。これがペンテコステのもう一つの賜物なのです。


※このように、教会には一致が必要です。そうでなければ、Ⅰコリント12章にあるように、その体は機能しない。しかしその一致は人間による一致ではない。人の言葉、人の力による一致ではない。神の霊、神の言葉による一致なのです。 バラバラだった120人程の弟子たちに聖霊が降った時、何が起きたのか、もう一度見てみよう。


使徒2:1~4:「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」


何を話し出したのか?!


Ⅴ11:「ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」


 言語はさまざまであっても、語られたことはただ一つ、神のなされた大いなるみわざ=イエス様の十字架と復活の大いなるみわざだったのである。


 教会の中ではいろんな言葉が交わされている。いろいろなわざが行われている。それは言語だけのことではなく、行ないのことだけでもなく、言葉や行ないを通して表わされている人のいろいろな考えでもある。しかし、教会の中で私たちに必要なのは、人の言葉、人の考えではなく、神の言葉、神の考え、神の霊です。 パウロはこう言った。


Ⅰコリント2:4~5:「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」


 もし教会を人の言葉、人の考え、人の力、人のわざで建て上げようとするなら、それは、この世の組織のように、現代のバベルの塔になってしまう。彼らは、自分たちの言葉、自分たちの考え、自分たちの思いで高い塔、自分たちの塔を建てようとしたのです。だから、彼らはバラバラにされたのです。


※しかし教会はそうではなく、主の御霊により、神の言葉によって一つにされ、そして建て上げられて行かなければならないのです。


【結論】

 今、私たちの教会は大変重要な所に立たされている。バラバラになるか、そうでないか、瀬戸際に立たされている。その鍵は、私たちが、神が注いで下さる御霊に従うか、人に従うか、神の言葉に従うか、人の言葉に従うか、どちらを選択するかにかかっているのである。答えは勿論、御霊に従うことです。


※今、私たちは、あの120人がイエス様の言葉に従って、一つ所に集まって、そして約束の御霊の傾注を待ち望んだように、私たちも御霊の傾注を待ち望もう!そして、御霊に満たされて、人の言葉ではなく、神の言葉を語り、神の言葉によって生きて行こう。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(ゼカリヤ4:6)と言われる、神の御霊に従って、歩んで行こう。


―祈り―




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