2021年5月30日(日) 主日礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

ネヘミヤ12:27~30

【タイトル】

「ネヘミヤ記(19)神への城壁再建完成奉献式①」

【前置】

この12章は前回の11章に続き、時間的には7章4節以降の城壁再建工事完了後のことが記されているところである。そしてこの12章は、完成した城壁を神様に捧げるという、教会で言うなら献堂式に当たる奉献式が記されているところです。そして、それはネヘミヤ記のハイライトと言っても良いところ。というのは、ネヘミヤはそのためにエルサレムに来たと言っても良いからである。彼がペルシャのシュシャンの城に居て、時のアルタシャスタ王に献酌官として仕えていたとき、エルサレムから親類のハナニたちがやって来て、エルサレムの神殿は建て上がっているが、町を囲む城壁は崩されたまま、城門も焼き払われたままになっているという知らせを聞き、彼は恰も自分のことのように嘆き悲しみ、そして、そのために王に許しを得、エルサレムにやって来て、さまざまな困難や妨害を受けながらも、その壊されていた城壁を再建させ、使命を達成させたわけだからである。彼にとってはどれほど誇らしいことか。だから彼は当然誇っても良いのだが、彼は自分の成し遂げたことを誇るのではなく、その代わりに、神に感謝をささげたのです。それがこの時ささげられた奉献式なのである。では、どのようにして奉献式が捧げられたのか、一緒に聖書を開いて見て行こう。

【序論】

 この章を開き、1節から読まないで27節から読んだのは、ここからいよいよ奉献式そのもののことについて記されているからです。ただ、簡単に1節~26節までのことを見てみよう。ここには奉献式を行なうに当たり、ここに至るまでの神殿再建のときから、この奉献式を行なおうとする時の主な祭司やレビ人の名前が上げられている。簡単にその個所を見て行こう。

 Ⅴ1~Ⅴ11では、「シェアルティエルの子ゼルバベル、およびヨシュアといっしょに上って来た祭司とレビ人は次のとおりである。」(Ⅴ1a)とあるように、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアを頭にして、ペルシャ王クロスによってバビロン捕囚から解放された人々の内の祭司やレビ人の主だった人々のリストです。彼らは、バビロンによって破壊された神殿を再建するようにと、クロス王によって解放され、BC538年にエルサレムに帰還して来た。Ⅴ12~Ⅴ21では、「次に、エホヤキムの時代に祭司で一族のかしらであった者は次のとおりである。」(Ⅴ12a)とあるように、最初に帰還した祭司ヨシュアの子エホヤキムの時代の祭司であった人々のリスト。Ⅴ22~Ⅴ25では、「エルヤシブの時代に、レビ人エホヤダ、ヨハナン、ヤドアは、一族のかしらとして登録され、また、ペルシヤ人ダリヨスの治世に祭司として登録された。」(Ⅴ22)とあるように、今見たヨシュアの子のエホヤキムの子のエルヤシブの時代のレビ人、また祭司の名が記されてあり、この時代に城壁の再建工事が総督ネヘミヤの下で進められ、完成したのである。そして奉献式が行われた。その詳細はⅤ31~Ⅴ43にあるが、ここではその奉献式のことが次のように簡単に記されている。

Ⅴ24:「レビ人のかしらたちは、ハシャブヤ、シェレベヤ、およびカデミエルの子ヨシュアであり、その前方に彼らの兄弟がいて、組と組が相応じて、神の人ダビデの命令に従い、賛美をし、感謝をささげた。」

 そしてⅤ26は、これまでのⅤ1~Ⅴ25のまとめである。

Ⅴ26:「以上はエホツァダクの子ヨシュアの子エホヤキムの時代と、総督ネヘミヤ、および、学者である祭司エズラの時代の人々である。」

【本論】

 いよいよ奉献式の個所に入って行くが、ここではその奉献式のための準備について語られており、そういう意味で非常に重要なことが記されている。何故なら、何事も成功のためには準備が重要だからです。建物の建築と同じように、土台と言う準備が疎かでは建物は建てられないからである。では、その奉献式のための土台とは何か?Ⅴ27から見てみよう。Ⅴ27~Ⅴ29では、奉献式を行なうためのレビ人が集まられることが記されている。彼らは、エルサレム城内だけでなく、城外の町々からも集められたのです。

Ⅴ27~29:「彼らはエルサレムの城壁の奉献式のときに、レビ人を、彼らのいるすべての所から捜し出してエルサレムに来させ、シンバルと十弦の琴と立琴に合わせて、感謝の歌を歌いながら喜んで、奉献式を行おうとした。そこで、歌うたいたちは、エルサレムの周辺の地方や、ネトファ人の村々から集まって来た。また、ベテ・ギルガルや、ゲバとアズマベテの農地からも集まって来た。この歌うたいたちは、エルサレムの周辺に自分たちの村々を建てていたからである。」そして、

Ⅴ30:「祭司とレビ人は、自分たちの身をきよめ、また民と門と城壁をきよめた。」

※ここに奉献式を行なうに当たっての重要なことが記されている。奉献式のための「聖め、聖別」である。「聖め、聖別」とは、どのような目的にしろ、「神の御用、神の目的のためにこの世から取り分ける」ということである。ここでは、具体的にどのように聖めたかと言う、その方法や内容については触れられていないが、聖めに関する律法(レビ8:30、8:10~15、、出40:30等)によるならば、動物を屠り、その血を振りかけたり、注ぎの油を振りかけたりということであったろう。いずれにしろ、彼らはそのようにして神のために取り分けたのである。

 そして、その聖めの順序が重要である。その順序に注目してみよう!

※先ず、「自分たちの身」をきよめた。そして、「民をきよめ、そして門と城壁」をきよめた。「民をきよめる」とは、奉献式のための民を選び、歌うたい、シンバル、十弦の琴、竪琴などを弾く人を選び、具体的な方法で聖別し、相応しく整えるということであり、「門と城壁をきよめる」とは、この後彼らは、二つの聖歌隊に分かれて、城壁の上を賛美をしながら神殿まで向かうが、そのための城門を聖別すること、つまり奉献式で奉仕する人、またその場所を聖めたのであるが、そのために、聖めの奉仕をする祭司やレビ人、つまり自分たちを聖めたのである。この順序が重要なのである。

 このことは、今日の私たちとどういう関連があるだろう。それは、今日の祭司やレビ人である教職者や役員、また主だった人々にとって、また、万民祭司と言われているすべてのクリスチャンや教会員にとって、教会内外での伝道や牧会、礼拝やその他、すべての奉仕をするには、先ず自らを聖める、聖別するということが重要であることを教えている。そうでなければ、どのような奉仕であっても、それは土台がしっかりと据えられていない建物のように、やがて崩れてしまうからである。

 では、私たちはどのように自らを聖めたら、聖別したらよいのだろうか?それは、次のイエス様のことばにある。イエス様は言われた。

マタイ4:19:「イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。』」

 これは伝道のためだけのみことばではなく、牧会や弟子づくり、教会のすべての働きに当てはまる。私たちは何をするにも、イエス様が考えるように考え、イエス様がなされるようにするのです。そのためにはイエス様も行っていたように、神様との交わりをしっかりと持ち、祈り、そして、何をするにも自分第一ではなく、神第一、人第一にして仕えることです。

ピリピ2:3~9:「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」

 奉献式は目に見えるものです。教会の奉仕も外見的には目に見えるものです。重要なのはそれを行なう私たちの内面、心です。内にあるものは外に出て来ます。心にあるものは外に見えて来ます。だから、先ず私たちは何をするにしても、先ず自分自身を聖めるのです。聖別するのです。それが重要なのです。

【結論】

 これは7月の時に語る予定だが、ネヘミヤが奉献式を終えた時、聖書は次のように記している。

ネヘミヤ12:45:「彼らおよび歌うたいや門衛たちは、ダビデとその子ソロモンの命令のとおりに、彼らの神への任務と、きよめの任務を果たした。」

 ネヘミヤは、奉献式を行なう土台が聖め、つまり、自分自身を先ず神に聖別することにあることを認識していたのである。パウロも同様に、自分の働きの中で、また、働きを終えようとする中で、次のように言っている。

ピリピ2:16b~17:「そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。2:17たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。」

Ⅱテモテ4:6~8:「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」

※このように、私たちは、私たちの神との関係における信仰生活、人との関係における教会生活に於いて、先ず第一に、自分を聖めることが重要なのです。それが私たちの信仰生活、教会生活の土台であり、柱なのです。そのように、私たちは何をするに当たっても、自分自身を聖めて、神様に、人に仕えて行きましょう。

―祈り―


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